2015/12/25

中国⑤宝成線その1 幹線上の増設ループ線

  • 中国二大河川を結ぶ

増設ループ線シリーズ、今回は中国のちょうど中央部の工業都市宝鶏(パオチー)から成都(チョンツー)を結ぶ宝成線の馬角壩(マージャオバ)ループをご紹介します。壩という字は日本語ではなじみがありませんが、「堤」とか「堰」の字と同じ意味です。

それはさておき、宝成線の起点宝鶏は陝西省の西の端にある都市です。紀元前700年の秦の時代に西域諸国との交易と軍事要塞のために開かれたという桁外れの歴史の長さに驚きます。さすが中国4000年ですね。天水、蘭州、武威、嘉峪関、敦煌と続く河西回廊の各都市への出発点として、古くからシルクロードに通じる重要な交通の要所でした。

宝成線は、その宝鶏と成都を結ぶ1958年に開通した全長670kmの路線です。現在、全線電化されており、南半分の陽平関~成都間約400kmは複線、北半分は単線です。

宝鶏は黄河流域、成都は長江流域で、地図を見るとこの中国の二大河川流域を秦嶺山脈を横切って結ぶ鉄道路線は少ないことが分かります。


昔から黄河流域と長江流域は交易手段が乏しく、異なる文化圏だったと言っても過言ではありません。秦嶺山脈は、高い山こそありませんが切り立った谷と深い山塊を抱える交易の障害でした。地理で習った秦嶺淮河線という畑作と稲作の境界線にもなっており、この山脈より南側は雨の多い水田地域、宝鶏のある北側は雨の少ない畑作地域です。三国時代の魏蜀の国境になったのもこの秦嶺山脈でした。

  • 開通即フル稼働の大幹線

その秦嶺山脈を超えて、長江黄河の一番上流部で両河川を結んだのが宝成線でした。宝成線は以前紹介した成昆線と同じ西南部開発を狙って建設され、狙い通り開通直後からフル稼働する大幹線となりました。

1958年、全通のわずか半年後に電化工事が始まり、1975年には全線電化が完成しています。秦嶺山脈の宝鶏側に30‰~33‰の勾配区間があり、蒸気機関車では満足に越えられなかったのでしょう。作る前に分からなかったのかという突っ込みはやめておきしょう。成昆線が1970年開通、2000年全線電化であることを考えると、重要度は圧倒的に上であることが伺えます。ちなみに宝成線は中国で最初の電化路線です。


1964年には早速線増による輸送力増強にも取り掛かっています。今回ご紹介する馬角壩駅から宝鶏方面の会龍場トンネルに向かう20‰勾配区間も、いきなり線路を付け替えて複線化されました。10年も使っていないのに、さすが中国、豪快すぎます。この時上り坂(宝鶏方面行き)は12‰勾配に緩和したループ線となりました。これが1970年に完成の馬角壩ループです。

蛇足ですが、複線化工事をする場合、一般的には旧線を下り坂用として残し、上り用の新線を一本作るか、そうでなければ新線を複線で作って旧線は廃止するかですが、ここでは単線の路線を二本別に作った上で旧線を廃止しています。さすが中国、豪快です。なお、会龍場トンネルの部分だけは新しくもう一本トンネルが開通する1994年まで単線だったようです。

  • 今でもバリバリの通行量

ここまで見てきた世界の増設ループ線では完成後の需要の変化でキャパを十分活かしきっていない例が見られましたが、ここは現在でも有数の列車本数をさばいています。旅客列車は片道だけで1日23本、貨物列車も片道30本程度走っているようです。平行する道路が特に宝成線北半分の宝鶏側で未整備なのも要因でしょう。


旅客列車の行先は実に多彩で、北京・上海・天津・青島をはじめウルムチ・チベットのラサ・内モンゴルのフフホトなど中国全土の主要都市に直通列車が走っています。

ただ残念ながら多彩な列車の半分以上は夜間にこのループ線を通過するダイヤになっています。

昆明からの成昆線直通列車もありますが、成昆線と宝成線のループ線をわざとかと思うほどことごとく夜間に通り、ループ線愛好家にはまるで使えないダイヤ設定になっています。

なお、この昆明発成昆線宝成線の直通特急は、成昆線7カ所宝成線2カ所の合計9カ所のループ線を通ります。これは2016年現在、一つの列車がループ線を通る数で世界最多の列車です。昆明発西安行と昆明発ウルムチ行がありますが、前述のとおりどちらも夜間にループ線を通過するダイヤです。2016/7/21追記


また、馬角壩駅に停車する普通列車は数年前まで片道3本ほどあったのですが、現在はすべて廃止されています。もともと中国の鉄道は一般的に普通列車が極端に少なく、1日1往復も珍しくありませんが、宝成線では長距離旅客列車と貨物列車に輸送力を振り向けたために普通列車を走らせる余裕がなくなったようです。


  • 廃線跡の宝庫

この秦嶺山脈一帯は日本の東北太平洋沿岸一帯に匹敵する地震地帯でもあります。2004年の四川大地震の震源も宝成線沿線でした。また水害にもたびたび見舞われることも多かったようです。

宝成線は輸送力増強と災害復旧とで全線のいたるところで線路の付け替えが行われています。コアな廃線好きの人にはかなり興味のある路線ではないかと思います。

ただし、ここも抜本的な輸送力改善として新幹線建設が進んでおり、すでに成都側150kmの江油まで旅客専用線が開通して延伸中です。ここ数年で輸送体系ががらっと変わる可能性があるので、機会のあるうちに乗っておく方が良さそうです。




増設ループ線シリーズは今回で終了ですが、実は宝成線にはもう1ヵ所ループ線があります。
次回はもう一方の宝成線のループ線をご紹介します。

2015/12/16

アジア①韓国咸白線 ここにも微妙な増設ループが


  • 韓国一の山岳路線

さて、今回は韓国中央部の太白(テベク)山脈を横断する咸白線のループ線をご紹介します。

韓国中央部を東西に横断する太白本線には、その途中山越えの手前で本線に寄り添うように分岐する咸白線という支線があります。この咸白線の咸白(ハムベク)駅と鳥洞(ジョドン)信号場間にループ線があり、見た感じ増設ループ線のような形態となっています。

太白山脈は石炭が豊富で、朝鮮戦争後韓国の経済発展に伴って鉄道が順次延伸されてきました。咸白(ハムベク)は鉱山の町で1957年にソウル方面堤川(ジェチョン)から鉄道が開通しています。

開通当初は起点の堤川から咸白までを咸白線と称しており、咸白駅は「韓国の石炭産業の中心地」として賑わったとwikipediaに書いてあります。一方、1963年に嶺東本線が全通し、東海岸沿岸部と直通列車が走るようになると、既存の栄州(ヨンジュ)経由では遠回りすぎるため、首都ソウルへ直行できる太白堤川経由のルートがにわかに注目されるようになります。

  • 支線の方がいつのまにかメインに


1966年、旌善(ジョンソン)線が一駅手前の礼美(イエミ)から分岐して太白方面へ延伸された際、礼美から咸白の間は分離されて、咸白線は行き止まりの盲腸線となります。


さらに1973年、旌善線が太白まで延長されて嶺東本線と直通するようになると、もともと支線だった旌善線が太白本線を名乗るようになりました。

本線から外れてしまった咸白線ですが、咸白駅が石炭産業の中心として引き続き賑わっており、盲腸線の終端駅となってもそれなりの運行本数が残っていたようです。

咸白駅から長大トンネルで太白本線につなぎ、ルート短縮と勾配緩和を一挙に実現する壮大な計画もありましたが、技術的にも工期的にも実現しませんでした。

礼美から分岐する太白本線(旧旌善線)は30.3‰で韓国随一の急勾配区間ですが、もとはといえば支線規格だったことを考えれば得心が行きます。

1976年末に咸白駅と太白本線を繋ぐループ線のトンネル(ハムベク第1トンネル)が開通し、再合流する地点に鳥洞信号場が設けられ、この区間の複線運用が始まります。この咸白~鳥洞信号場間の勾配ははっきり書いてある資料が見当たりませんでしたが、地形図から計算すると23‰程度だと思います。

  • 賑わいは過去の話

ところがハムベクトンネル開通とほぼ同時に太白本線が電化されて事情が変わってきました(これもはっきり分かりませんでしたが、ハムベクトンネルは開通当初から電化されていたようです)。もともと礼美~鳥洞信号場間の急勾配区間は3km程度と短かく、高出力の電気機関車でそのまま上り坂に突っ込む方がハムベクトンネル経由で距離を迂回するよりも早いという事態が発生してしまいました。

咸白駅。後ろに見えるのは太白本線の貨物列車
 その結果、韓国鉄道の複線が単線並列式であることもあって、当初から咸白駅に停車する列車、及び対向列車と行き違いする列車だけが咸白線ハムベクトンネルを経由するというダイヤが組まれたようです。なお、文献によって上り坂となる東行貨物列車は全部ハムベクトンネルを迂回したと書いているものもあり、どちらが正しいのか不明です。

韓国一と言われた咸白鉱山は80年代中盤に閉山となり、減らされつつも残っていた咸白駅停車の旅客列車も2007年で廃止され、現在ではすっかり咸白線全体が行き違い設備の待避線のようになっています。

 もともと幹線クラスの運行本数があった咸白線にとってはあまりに寂しい現状です。



  • 乗れるかどうかは運次第

現在、旅客列車のダイヤを見ると礼美~鳥洞の駅間で交換している列車が1日1本見られます。この列車は咸白線経由の可能性が高いとは思いますが、なんとも言えません。貨物列車は結構な頻度で走っており、何本かはループ線を経由しているとのことです。その他ダイヤが乱れた時や臨時列車が走るときなど、このループ線を使って行き違いを処理しているとのことです。

礼美駅の分岐。左が太白本線、正面が咸白線
 ここのループ線はループの大部分がトンネル内で、ループを通らずに断崖を登っていく太白本線の方が景色が良いそうです。「普段通らない谷底の線路(咸白線のこと)を通った。」と書かれている方もいらっしゃいます。それ、超貴重なループ線通過体験なんですけどね・・・・。



ループ線自体少し地味で知名度低いのですが、こちらのブログ(韓国語)で素晴らしい現地写真が公開されています。





次回は増設ループ線の最終回、中国宝成線をご紹介します。

2015/12/05

欧州②イタリア・サヴォナループ 紆余曲折の結果・・・

  • 海の見えるループ線

今回はイタリア西部海岸沿いのサヴォナ・ループをご紹介します。

イタリア北部は19世紀から工業が発展し、すでにトリノとミラノはその代表的な工業都市となっていました。交通網もこの二つの都市と港町の代表ジェノヴァを中心に建設されていきました。日本がまだ明治になる前の話です。

サヴォナ市は鉄鋼業と造船業が発達した港町です。1868年にはジェノヴァから海岸線沿いの路線が、1874年には山を越えてトリノと直結する路線がそれぞれ開通しています。 19世紀の中盤に既に2方向の鉄道網を持っていたとは恐れ入りますよね。

今回ご紹介するのはこのトリノとサヴォナを直結する山越え線、トリノ・サヴォナ線です。

このトリノ・サヴォナ線を地図で見ると、「ああ、後から線路容量が足りなくなってループ線を増設したんだな」と一目で分かる線形です。その推測はおおむね間違っていないのですが、実はこのループ線は完成するまでに紆余曲折がありました。

  • 工業都市と港を結んで

ループ線と既存線の分岐点、サン・ジュゼッペ・ディ・カイロ駅は北イタリアの代表的な工業都市トリノとアレッサンドリア両方から線路が通じており、19世紀終盤に輸送量も増大していきました。早くも1900年代の初頭ころから、サヴォナとサン・ジョッセッペ・ディ・カイロ間の線路容量不足に悩まされるようになります。

世界最長のロープウェーとループ線
最初の線増計画がスタートしたのは1908年で、アルターレ経由の複線新線を建設して一挙に線路容量不足を解消する目論見でした。ところが、ここで発生したのが第一次世界大戦です。案の定工事は中断されてしまいます。ヨーロッパの鉄道路線は戦争を抜きには語れないことを痛感します。

なお、サン・ジュゼッペ・ディ・カイロとサヴォナ港の間には線増工事の完成が待ちきれずに18kmに及ぶ石炭運搬用のロープウェーが作られていたりします。このロープウェーは今でも世界最長だそうで、なかなかすごいです。ループ線とまるで関係ありませんがちょっと男心をくすぐります。

  • どうしてこうなった・・・・

さて、中断されていた線増工事ですが、第一次世界大戦が終わるとアルターレに軍の駐屯地があったため軍事輸送目的で軍部から強く建設を督促されるようになりました。その結果、難工事を避けた簡単なルートに変更して、陸軍自らが工事にあたり1923年にサン・ジュセッペ・ディ・カイロ~アルターレ間が開通します。この区間は終戦までは軍の専用線として使われました。

この時、開通を急いだせいでしょうか、アルターレ駅はサン・ジュゼッペ・ディ・カイロ駅よりも標高が高いところに作られました。サン・ジュゼッペ・ディ・カイロからサヴォナまでの下り坂の前に一旦坂を上るということですね。

戦後1954年に改めてアルターレ・サヴォナ間が開通し、この時にループ線が採用されました。勾配は旧線25‰に対して新線30‰。区間距離は旧線19kmに対して新線は24km。新しい方が遠回りでしかも急勾配という謎の新線となってしまいました。
サヴォナループの勾配図。左が旧線、右がループのある新線です。
新線の風景。よく見ると路盤は複線分あります。

結局、新しく作られたループ線はサン・ジュゼッペ・ディ・カイロからサヴォナへ向かって坂を下る列車が使用し、サヴォナ発の坂を上る列車は引き続き旧線を走ることになりました。増設した新線の方が急勾配というのは世界でもここだけでしょう。

ただ、イタリア国鉄の名誉のために言っておきますと、この区間は早い段階で(おそらく第一次大戦以前に)電化され機関車の牽引力も向上していたため、勾配緩和はそれほど重要でなく、純粋に線増の方が狙いだったと思われます。また、新線は曲線改良されており、制限速度が旧線の65km/hから80km/hに引き上げられています。


  • 旅客列車は豊富

こちらは旧線の風景
現在、ループ線のある新線はサヴォナ方面行き、旧線はサン・ジュセッペ・ディ・カイロ方面行きを中心に運転されていますが、ダイヤを見ると途中駅利用客の便宜を図るために、サヴォナ行きでループ線を通らない、またはサヴォナ発でループ線を通る通常とは逆向き運転の列車も設定されています。それぞれ独立した単線の路線として機能しているようですね。

ループ線を通過する旅客列車はサヴォナ方面行き15本、サン・ジュセッペ・ディ・カイロ方面行き7本の計22本あります(2015年12月平日ダイヤ。休日は若干運転本数が減ります)。

サヴォナとサン・ジュセッペ・ディ・カイロ間無停車の快速列車は列車の待ち合わせを見て推測するしかありませんが、ざっと見たところ逆向き運転の快速列車は上下1本ずつ、計2本だけのようです。1日20本超えの旅客列車が通るのは世界のループ線ではかなり多い方です。



ここは列車本数も多く、ジェノヴァやトリノなどの主要都市からも近いのに、日本から乗りに行った方はほとんどいらっしゃらないようです。タンド線と比べるとはるかに手軽に行けそうなんですが。

なお、アルターレ駅近くに高速道路が通っているのですが、この高速道路も豪快にループしています。道路の方は普通に上りがループ線になっています。

次回は増設ループ線第3弾で韓国から咸白線をご紹介します。

2015/11/28

オセアニア①オーストラリア ベサングラ・スパイラル 丘陵ループ線の代表


  • オーストラリアの大幹線

今回はオーストラリアのシドニーとメルボルンを結ぶニューサウスウェールズ南本線(Main Southern railway line, New South Wales)にあるベサングラ・スパイラル(Bethungra Spiral)をご紹介します。

この路線はもともとはシドニーからの開拓鉄道として建設がスタートしました。シドニー側から南進する形で順次延伸され1878年にこの区間が開通、1883年にはメルボルンから北進する形で延伸してきたヴィクトリア鉄道と州境のアルベリーで連絡しました。日本で言えば東京と大阪を結ぶ東海道線クラスの大幹線です。

ところが、ヴィクトリア鉄道は1600mmゲージ、ニューサウスウェールズ鉄道は標準軌で直通運転はできず、州境のアルベリーで必ず乗り換えとなりました。

この軌間ギャップが解消されたのは80年も後の1962年で、アルベリー~メルボルン間約300kmにおいて標準軌の線路を横付け線増し、めでたくシドニー〜メルボルンまで直通列車が走ることとなりました。1600mmゲージと標準軌の単線並列が延々と続くという珍しいもので、これはこれで見てみたかったですね。

単線並列だった区間のうち、アルベリー~シーモア間の約200kmは2011年に改軌されて標準軌の複線となりましたが、残りのシーモア~メルボルン100kmは未だに1600mmゲージ複線と標準軌単線の三線区間です。結果としてメルボルン近郊では今でも2種類のゲージの混在が続いており、場所によって併設線増したり、三線軌にしたり、改軌したりといろいろ苦労しているようです。

  • 複線化とループ線

 1878年にこの区間が開通したと書きましたが、開通当初はループのない25‰勾配の単線でした。ところが補機を要するこの区間が輸送需要にだんだん応えられなくなり、1941年から45年にかけて複線化する際にこの区間だけ別線を建設することとなりました。

この複線化時に建設した16‰勾配の別線がループ線のベサングラ・スパイラルです。

このような経緯で上り坂となる北行(シドニー行)だけがループ線を走り、下り坂の南行(メルボルン行)は既存の線をそのまま走っています。日本の北陸線鳩原ループと同じ成り立ちですね。




  •     一味違う丘陵のループ線

このベサングラスパイラルを航空写真で見てみると、ちょうどループ線の真ん中に小高い丘があり、丘の周囲をぐるっと線路が一周している形状になっているのが分かります。

周囲は起伏のあるなだらかな丘陵地帯で、険しいというよりものどかな光景が広がっています。険しい地形に必死で挑む言わば体育会系のループ線を見慣れていると、ここは「急坂で登るとしんどいからちょっと遠回りしていこうぜ、ベイベー!」みたいなゆるーいノリに感じてしまいます。それでも全長約7kmで100mほど標高を稼ぐ難所ではあったことは間違いありませんが。


ここまで紹介してきたループ線はいずれも川と峡谷から生じる登り坂を克服するものでしたが、ここベサングラ・スパイラルは周囲に川と言えるほどの川のない典型的な「丘陵型ループ線」です。

「丘陵型ループ線」の対義語は「峡谷型ループ線」で、数は圧倒的に峡谷型の方が多数派です。丘陵型は概してトンネルが少ないのですが、ここも二つあるトンネルはいずれも線路をくぐる短いもので、実質的にはオープンループです。

  •  地方が苦しいのはどこも同じ
幹線級のニューサウスウェールズ南本線ですが、都市間鉄道の郊外部分が苦しいのは各国共通です。ループ線の名前となっているベサングラも1980年代までは駅がありましたが現在は廃止されています。

現在、旅客列車としてはシドニー・メルボルン間950kmを11時間30分かけて走る特急が1日2往復あります。ただし、そのうち1往復は夜行列車で、メルボルン行は前述のとおりループ線を経由せずに素通りしますので、結局朝のメルボルン発シドニー行だけが昼間ベサングラループを通ることのできる唯一の旅客列車です。



なお、日曜日だけグリフィス・シドニー間の区間列車が運転されており、この列車でも昼間にループ線を通過できますが、旅行者が乗るには時間的にちょっと厳しいかもしれません。蛇足ですが、このグリフィス・シドニー間の列車は「もっぱら政治的理由でのみ運転されており交通機関の役割を果たしていない」とWikipediaに書かれていたりして、いつまで運転が続くか予断を許しません。


次回は再度ヨーロッパからイタリアのサヴォナループをご紹介します。

2015/11/22

北米①キッキングホース峠 北米随一の鉄道名所

  • 大陸横断の障害
さて今回はカナダの大陸横断鉄道がロッキー山脈を越えるキッキングホース峠をご紹介します。

南北アメリカ大陸はどちらも太平洋側の山脈が大陸横断の障害となっていました。その北米側の障壁だったロッキー山脈は北アメリカ大陸南部カリフォルニア付近では砂漠の岩山が中心ですが、カナダまで来ると森と氷河の山脈になります。いわゆるカナディアンロッキーです。

人口の希薄さはどちらも似たようなもんですが、水と木がふんだんにある分気分的に落ち着きます。少なくとも南米アンデス山脈に横たわるアタカマ砂漠の無人地帯に比べると寂寥感・世紀末感はありません。それでも地形的には砂漠とは違った険しさがあり、鉄道建設の先人の苦労が見て取れます。氷河が作るU字谷は谷底は平らなのですが、どこへ行くにも絶壁を上ることになる鉄道の最も苦手な地形です。

  • カナディアンパシフィックの挑戦


カナディアンロッキー山脈の内部では基本的に川は南北方向に流れています。従って東西の大陸横断を試みようとすると何度もU字谷を上って降りることになります。それでも果敢に挑んだのがカナディアン・パシフィック鉄道、現在のカナダ・ナショナル・レイルウェイです。ナショナルと付いていますが民営会社でCNと略称します。

ちなみに昔は本当に国有でCNRと称していたのですが、1995年の民営時にそのままの名称で略号をCNとしたようです。CRと略していれば日本のJNR⇒JRと同じだったんですが、惜しいですね。

カナディアン・パシフィック鉄道がこの峠に線路を初めて開通させたのは1884年で、実は大変歴史のある鉄路です。

当時大陸横断一番乗りを目指して鉄道会社同志で建設を競っており、一刻でも早く開通させたかったことから、建設期間短縮をするためにまっすぐ坂を下る45‰の急勾配の線路で当初開業しました。

目論見どおり、カナディアンパシフィック鉄道は単独の鉄道会社として初めて北米大陸の東西を結び、開業後は東西輸送で大変賑わったようです。キッキングホース峠の急坂にはThe Big Hillといういかにもアメリカ大陸的なニックネームが付く鉄道名所となりました。

  • 新線への付け替えとループトンネル

ところが、日本で言えば明治初期のこの時代の非力な蒸気機関車に7km続く45‰の連続勾配はさすがに酷でした。 前部2両、後部2両の蒸気機関車を連結し、旅客列車は13km/h、貨物列車は10km/hの速度制限で急坂を下っていったとあります。上りよりも下りに苦労したらしいことは、設備的に下り坂の途中に3か所非常停止用待避線が作られていることからも分かります。簡単に言えば規模の大きな脱線転轍機なのですが、それでも何回か下り坂で止まれないという暴走事故を起こしてしまいました。

線路図 左に向かって下り坂
そのうち補機必須かつ厳しい速度制限のThe Big Hillは輸送需要に応えきれなくなり、1909年に新線を建設して急勾配を解消することになりました。その際にできたのがスパイラルトンネルです。

新線の建設で勾配は22‰になり、輸送力も上がりました。ダブルヘアピンの両側がループトンネルというインパクトの強い線形ができるまでには、こんな経緯があったんですね。現在、旧線の上半分は高速道路建設の際になくなったようですが、下半分は遊歩道になっているとのことです。


  • 世界でも珍しいアレが見られる
先頭の機関車がループを抜けてます
ところでこのループトンネル、上下どちらも曲線半径が175mだそうです。現代的な感覚ではもう少し曲線半径を取りたくなる急カーブですが、曲線半径を広げてトンネルが長くなるのは避けたかったのでしょう。ループのほとんどがトンネル内という構造上仕方がありません。

しかし、この急曲線ループのおかげで、ここでは世界でも珍しいものが見ることができます。それは何かと言うと「最後尾の車両がループに入る前に先頭車がループを抜ける」現象、長ったらしいですが要するに蛇のとぐろ列車が見られるということです。私の調べた限り、こことアメリカのテハチャピループだけと思われます。残念ながら確証はありません。他でもあるよ、という情報がありましたらお知らせください。

  • 旅客列車も
旅客輸送の衰退した北米の鉄道網ですが、キッキングホース峠には観光列車としてまだ旅客列車が残っています。ロッキーマウンテニア鉄道の観光列車、"First Passage to the West"号が4月~10月の間、週に2往復程度走っています。ハイシーズンは3往復に増便されます。バンクーバー発レイクルイーズ行きとバンフ行きがありますが、どちらでもキッキングホース峠を通過することができます。また逆向きのバンクーバー行でも通過することができます。



こちらのブログでもキッキングホース峠について解説されています。地形から線路を追う感覚で世界のいろいろな鉄道を紹介されているサイトです。他にあまりない視点ですが、当ブログと趣旨がかぶる部分もあり個人的に非常に尊敬しています。是非ご一読いただければと思います。

次回はオーストラリアからベサングラのループ線をご紹介します。