2017/07/12

中国⑪浜州線興安嶺ループ 20世紀を駆け抜けた多国籍ループ線


  • その時歴史は動いた

今回は中国東北部、旧満州にあったループ線をご紹介します。

中国領土内にロシアが鉄道を建設した経緯は大変複雑です。このあたりは専門外なのでごく大雑把にまとめると、日清戦争終了後に日本が遼東半島を中国から割譲されましたが(1894年下関条約)、ロシア・フランス・ドイツの三国がこれに介入し、日本は遼東半島の獲得を断念します(1895年三国干渉)。

遼東半島獲得断念の見返りに清朝はロシアに対して満州の鉄道敷設権を与えます(1896年露清密約)。この鉄道敷設権に基づいて、中露国境の満州里から満州を斜めに横切ってウラジオストクの北東の綏芬河まで、全長1500kmの東清鉄道(East China Railway)が建設されました。

1898年から工事が始まり、1904年に開通しています。地図で見るとシベリアの中心都市の一つチタからウラジオストクに向けて、一直線に線路を引いたのがよく分かります。

実はこの鉄道敷設権というのが曲者でした。取り決めにより、鉄道用地が実質ロシア領になったに等しかったのはまだ理解できますが、それに加えて鉄道関係者の生活に必要な土地もすべて鉄道用地と拡大解釈されていきます。

鉄道車両の車庫用地はもとより駅や鉄道関係者の住宅・学校・病院・商店、関係者居住域の警察や軍隊、はては鉄道燃料用の鉱山までなんでもかんでも鉄道用地扱いされ、結局駅や鉱山のある町はまるごとロシア領になったようなものでした。

実態は植民地化されたのと何も変わりません。このような実質植民地の鉄道用地は鉄道附属地と呼ばれ、ロシアをまねて各国が清朝領内に続々と鉄道敷設権を獲得して鉄道附属地が広がって行ってしまいました。詳しくは→こちら

これにはさすがに住民の不満が高まり、義和団の乱(1900年)から辛亥革命(1911年)へと進んでいき、中国の王朝政治の終焉を見ることになります。また、日本ではこの時のロシアの狡猾な立ち回りが不信感を呼び、日露戦争(1904年)の原因の一つとなります。

このように東清鉄道はいろいろ国際政治に波紋を起こすものでした。振り返って見ると三国干渉に基づく鉄道敷設権付与は日露戦争から第二次大戦までの要因にもなっています。

  • ロシア人が作り、日本人が育て、中国人が使う
ロシア時代の線路図
点線は工事中の仮線で3段スィッチバックでした。
本線完成後は撤去されたそうです
ところで満州の地形はおおむね平らな平原なのですが、中央部に大興安嶺山脈が横たわっています。

この山脈よりもロシア側は標高600m程度、中国側は標高200mと高低差がありました。東清鉄道は満州里(チタ)側と綏芬河(ウラジオストク)側の両方から建設が進みましたが、最後まで残ったのがこの大興安嶺を超える部分でした。

東清鉄道はこの興安嶺山脈の高低差を全長3100mの興安嶺トンネルとループ線で越えました。これが興安嶺ループ線です。ロシア語では土木技術者の名前を取ってボチャロフ・スパイラルと呼ばれていました。

開通時のループ線の様子。これは絵でしょうか。
ちょっと山と線路のバランスがおかしいように見えます
こちらからお借りしました
曲線半径は320メートル、高低差は100m、勾配は約15‰です。開通当初はロシア規格の1520mmゲージで建設されています。

このロシア製ループ線は1904年の開通後も数奇な運命をたどります。開通してすぐに日露戦争が勃発し、ロシアが敗北します。

ハルビンから長春を通って大連・旅順へ向かう南満州支線はこの時ロシアから日本に譲渡されて南満州鉄道、通称満鉄となりますが、この満州里~綏芬河間の路線はロシアの鉄道として残り、北満鉄道と呼ばれることになります。

ループの交差部
警備兵用のトーチカが残されているのがロシア製の名残です。
この際、鉄道附属地も管理権ごと満鉄に譲渡されたため、実質日本の植民地となりました。この時代の歴史でよく出てくる関東軍とは、もともと満鉄の鉄道附属地の守備隊です。鉄道会社の社員が行政権を握った町がいくつもあったという不思議な時代でした。

その状態で30年ほど経過し、ロシアがソヴィエト連邦になり、清が中華民国となった1931年に満州事変が勃発し満州帝国が成立すると、1935年北満鉄道はロシアから満州帝国に有償譲渡されて満州国鉄になります。ちなみにこの時の有償譲渡の交渉にあたったのは杉原千畝だったそうです。

現在のループ線の様子
交差部の上部は新南溝信号場で行き違い設備があったようです
 
わざわざ勾配上に行き違い線を作った理由は分かりません。不思議です
1937年には満鉄に合わせて標準軌に改軌します。急激に改軌したため、標準軌用の機関車と貨車が極端に不足する事態となったそうです。

有償譲渡されてから第二次大戦終戦までは日本人経営の満州国鉄の路線だったのですが、終戦後はソ連と中国(国民党政府の中華民国)の共同経営路線となります。

最終的に中華人民共和国成立によりソ連は満州鉄道経営から手を引き、1952年に完全に中国国鉄の運営となりました。

この興安嶺ループはロシア人運営の東清鉄道、日本人運営の満州国鉄、中国人運営の中国国鉄と3つの異なる民族により運営されたことになります。このように相互乗り入れではなくて三カ国の列車が走ったのは世界のループ線の中でここだけです。


  • マニアだけが知るその価値とは

さて、この興安嶺ループ、非常に国際政治に影響を与え、国際政治の影響を受けたループ線だったのは上述のとおりなのですが、ループ線としても超一級のものでした。

こちらは中国時代の線路図
残念ながら満鉄時代のものは軍事機密だったからか
敗戦時に散逸したのか見つかりません

写真で分かる通り、興安嶺ループは地平から築堤で人工的に高度を上げていく非常に珍しいオープンループでした。スイス・ベルニナ線のブルージオと同じ成り立ちで見た目もよく似ていますが、幹線用の高規格で比較にならないほど大規模なものでした。

ループ線の途中には新南溝信号場があり、行き違いができるようにもなっていました。また、自線と交差した後も円の外周に沿ってさらに半回転する1回転半ループだったのもポイントです。

東洋のブルージオと言える素晴らしい形状で、知名度が少ないのは不当だとも言えるほどです。

むしろ興安嶺ループの方が規模も大きく開通も早いので、ブルージオの方を「スイスの興安嶺」と呼ぶべきだったかもしれません。


  • 大地にたたずむ歴史の生き証人

興安嶺ループは中国国鉄として戦後も満州開発、中ソ国際輸送を支えていましたが、中国の鉄道近代化施策の一環で2007年に160km対応の新線に切り替えられ、残念ながら廃止されました。





旧線となったループ線は、興安嶺トンネルや博克図機関庫とともに内モンゴルの文物保護単位(日本でいう重要文化財)に指定されています。

観光鉄道を走らせる計画もあったようですが、今のところ具体的な動きはありません。一応線路も含めて構造物は一通り残されています。




ある意味世界史をも動かした偉大なループ線の遺構は、現在は満州の地でひっそりと余生をすごしています。

次回は北欧のループ線をご紹介します。

0 件のコメント :

コメントを投稿