ラベル 廃止 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 廃止 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2018/07/16

欧州㉗イタリア・地中海鉄道ラゴネグロ線 結局廃止になった地中海鉄道の傑作ループ線

  • 今はなき傑作路線のループ線

今回は、前回に引き続いてイタリアの迷鉄道会社、地中海鉄道MCLの作った3か所のループ線のうちの最後の一つ、ラゴネグロ線のカスペルッチオ・スパイラルをご紹介します。

1977年ループ線周辺を走るサヨナラ列車だそうです。
こちらからお借りしました
このラゴネグロ線は、ほとんどが全通できなかった地中海鉄道会社の路線の中にあって珍しく全線開通した950㎜の鉄道です。

地中海鉄道の概要に関しては前回のエントリをご参照ください。→こちら

起点は前回ご紹介したマルシコ・ヌォヴォ線の起点アテナ・ルカーノから南へ30㎞ほどイタリア国鉄線を走ったところにあるラゴネグロで、標準軌の国鉄線の終点です。

ここから複雑なアップダウンで半島を横断して、イオニア海側の国鉄線のスペッツァーノ・アルバネーゼ駅まで104kmを結んでいました。

この路線は海側から建設が始まり1915年に最初のカストリヴィラッリ駅~スペッツァーノ・アルバネーゼ・テルメ駅間の28㎞が開業しました。

例によって人口の少ない山の中を通る路線で、このカストロヴィラッリはラゴネグロ線沿線で最大の街ですが、それでも人口3万人ほどです。

1929年にはラゴネグロ駅~ライーノボルゴ駅間が開業、1931年には残りの峠の区間も開通し、地中海鉄道念願の半島横断がついに実現しました。

ループ線は1929年ラゴネグロ駅~ライーノボルゴ駅間が開業した時にカステルッチオ・スペリオーレ駅とカステルッチオ・インフェリオーレ駅の間に作られました。

曲線半径は上半分が100m、下半分が120m、勾配は地中海鉄道の標準規格でもあった60‰でした。カステルッチオ・スペリオーレ駅とカステルッチオ・インフェリオーレ駅間の3kmという比較的短い駅間距離で、160mもの高低差を上下しています。


  • 狂ってる?それ、褒め言葉ね
このラゴネグロ線、世界でも二カ所しかないラック式とループ線の両用線区だったことが最大の特色でした。ループ線だけでは高低差を吸収しきれなかったため、ラック式併用の100‰勾配を設けて無理やり乗り切るという荒業を使った地中海鉄道の傑作路線でした。ちなみに残りのもう一箇所のラック式併用ループ線はスイスのフルカ峠です。

ラゴネグロ線の勾配断面図。赤線はラック式区間です。
3カ所にピークのある複雑な上下動をする路線でした。
ループ線は左から右に向かって二つ目の谷に向かう下り坂の途中にありました
ラゴネグロ線には起点のラゴネグロ駅と隣のリベッロ駅間と、終点近くのカッサーノ駅前後に2ヶ所、合計3か所のシュトループ式という簡易な方式のラック式区間が設けられています。

ラゴネグロ駅~リベッロ駅間のラック式区間は85‰勾配の途中に全長200m高さ40mのセッラ陸橋を作って、その陸橋の上をラック式で登るという、現代から見るとかなり「頭おかしいの?」的なルート選定がなされています。

ド派手なセッラ陸橋。もはやオーパーツと言っても過言ではありません
こんな深い谷を直接跨ぐことはしないで、遠巻きするルートにするのが普通でしょう。陸橋でショートカットしたためにかえって勾配がきつくなっているようにも見えます。

建設年代を考えるととんでもなく傑出した土木技術ではありますが、ラック式で最高速度が時速15kmに制限されており、まるで時間短縮にはなっていません。

むしろ谷を遠巻きして30‰ぐらいの勾配にした方が距離が伸びても到達時間は早かったのではないかと思います。

どうも技術力を誇示したかったがためのラック式大規模陸橋ルートだったかのように思えてなりません。プロモーションビデオっぽいものがYouTubeにありました。これは必見です。



  • 創業と守成といずれか難き
ところが、せっかく全通したラゴネグロ線ですが、率直に言ってルート選定に無理があったようです。1952年に地すべりでセッラ陸橋が折れ曲がってしまって不通になってしまいました。

地すべりで折れ曲がったセッラ陸橋
今でもこの状態で放置してあるそうです
日本だと危ないと言って即撤去されそうです

こちらからお借りしました
地すべりと和訳しましたが、数年単位で地面が動く土地隆起に近い Bradyseismという現象だそうです。ほれ見ろ言わんこっちゃない、と突っ込みたくなりますよね。

セッラ陸橋を含む区間はバス代行にして営業は継続されましたが、1970年に今度は海側のラック式区間でエイアノ川にかかる鉄橋が流されてしまい、ここも不通となります。

つまり国鉄線に通じる両端部分がどちらも運転できない状態になってしまいました。

それでも両端区間をバス代行して離れ小島の中間部分だけで頑張って営業を続けていましたが、1978年についにギブアップ。全線廃止となり、この時にループ線も廃止されました。結局全線を通して列車が走っていたのは1931年から1952年までの約20年強だけだったことになります。

  • 我こそは地中海鉄道マニア
さてさて、この地中海鉄道、調べれば調べるほど面白い鉄道会社です。それだけで別のブログが立ち上げられそうな勢いですが、ここでは簡単にこの鉄道会社の特徴を列記してみましょう。いずれも後知恵の結果論の部分もありますが、そこはご容赦ください。

まず、最初に押さえておきたい特徴は「豊富な資金を持っていた」「かなりの高度な土木技術力と車両技術力があった」「需要とは無関係に壮大なイタリア南部路線網構築を夢見ていた」、この3点です。

地中海鉄道の路線図を再掲しておきます
現存しているのは中央上部のポテンツァから
右上のバーリを結ぶ路線だけです
これらの要素が複合して「無理なルート選定を無駄に高い技術力で補った、むしろ補えてしまった」「イタリア半島を横断することばかりに捉われて、都市間の移動需要にはまるで無頓着だった」という点が出てきます。

もともと粘着鉄道で最小曲線半径80m、勾配60‰(しかも連続勾配)は相当無理があるのですが、なぜか地中海鉄道ではこれがスタンダードで、どの線もこの規格で作られています。

ところが大型車は走らせられないし、スピードは上げられないしで第二次大戦以降自動車にまったく対抗できない主要因になってしまいました。その豊富な資金と技術をまっすぐ平坦に線路を敷くことに向けていれば、違った結果になっていたかもしれません。

無理なルート選定は、災害運休が続発したことに繋がりますが、とりあえず部分開業した路線が軒並み赤字路線になってしまったのも、突き詰めるとルート選定の問題と言えそうです。

さらに壮大な鉄道路線網を夢見て何か所も同時に着工した挙句、どこも全通できなかったのもまずかったです。末期は赤字盲腸線ばかりになって保守もままならなかったようです。ただし全通してももともとも需要のないところに引いた低規格な路線ばかりなので、どこかのタイミングで廃止された可能性が高いです。

地中海鉄道は、末期には豊富だった資金も底を付き、ついに1961年に整備不良による脱線転落事故を起こして多数の死者を出し、イタリア政府から事業免許を取り消されるという空前絶後の最後を遂げました。路線はすべてカラブロ・ルカノ鉄道(FCL)という別の民間会社に引き継がれています。

こうして見てみると地中海鉄道はマーケティング的経営学的観点からでは相当ダメな鉄道会社だったと言わざるを得ませんが、地方の一民間鉄道会社が3つもループ線を作ったその技術力・資金力と、ひたすらに半島横断にかけた情熱はむしろ讃えるべきかもしれません。とは言え整備不良で事故を起こして多数の死傷者を出すのはNGですね。

個人的には、この「細けーことはいいんだよ」的なノリでループ線をがんがん作って、もれなく廃止した地中海鉄道、嫌いではなくむしろ大好きです。




ループ線とは関係ありませんが、インフェリオーレ、スペリオーレと聞くと日本語で優等劣等のイメージがあってそんな言葉地名に使っていいのかよ、と思いますが、イタリア語では単に土地の高低を表すものでしかないようです。イタリア国内にインフェリオーレ、スペリオーレを頭に付けた地名がたくさん見つかります。日本語で下カステルッチオ、上カステルッチオと言ってるのと同じ感覚なんでしょうね。

次回は、上で少し触れたスイスのフルカ鉄道のループ線をご紹介します。



2018/06/05

欧州㉖イタリア・地中海鉄道 ブリエンザ&セッラ・ペダーチェ 果たせなかった半島横断

  • 超攻撃的鉄道会社、得意技は無理攻め

今回はイタリアの廃止ループ線を二つまとめてご紹介します。

1900年代初頭に設立された歴史に残る迷鉄道会社「カラブロ・ルカノ間のための地中海鉄道会社」が建設した3か所のループ線のうちの二つです。イタリア語でMCLと略します(Mediterranea=地中海、Calabro-Lucane)。

立派な土木構造物に客車一両のアンバランス
60‰の連続勾配を蒸気機関車で登っていたのは衝撃です(後年はディーゼル化されています)
技術的には超一級です。こちらからお借りしました

この地中海鉄道MCLは、もともとイタリア南部の鉄道路線の資産保有会社でした。実際の鉄道の運行にはタッチしない投資会社のようなものでしょうか。

それが1905年イタリア国鉄が設立された際に、保有するイタリア南部の標準軌路線が国鉄にがっさり買収されて、多額の現金を手にします。

この現金を使ってイタリア南部に壮大な、現代から考えると無謀なローカル鉄道ネットワークを自前で建設することにしました。こうしてイタリア南部の山岳地帯に次々と鉄道路線建設に着手していきます。

地中海鉄道MCLの路線図
黒線は国鉄線、赤線はMCL社線。点線は未成線。
なお、赤線部分も現在は大部分が廃止されています
ところがイタリア南部の半島中央部には標高1500m級の山脈が走っており、東のイオニア海側の沿岸と西のティレニア海側の沿岸を結ぶのはそう簡単ではありません。

比較的線路を通しやすいところには既に標準軌の国鉄線があったので、それ以外の残ったところはどこもドン引きするレベルの険しい山岳地帯ばかりでした。

それにもめげずに地中海鉄道はいくつかの東西連絡線を着工し、そのうち3か所にループ線が作られています。

まず一つ目はマルシコ・ヌオヴォ線のブリエンツア・スパイラルです。

このマルシコ・ヌオヴォ線はカンパーニャ州南端の街アテナから、イオニア海沿岸を目指した950㎜のイタリアンナローゲージ路線です。

途中山脈を何度も横切るドSなルート選定で、鼻息荒く1911年に着工しましたが、第一次世界大戦の影響で開通したのは1931年と、だいぶ工事に時間がかかってしまいました。しかも、起点のアテナ・ルカーノからマルシコ・ヌオヴォまでの30㎞弱だけの部分開業を余儀なくされています。

標高450mのアテナを出るといきなり分水嶺の峠を8kmで400mも上り、そこからループ線を使って標高700mのブリエンツアの街まで下るというダイナミックな路線でした。ループ線部分の勾配は60‰、曲線半径90mという粘着鉄道の限界スペックです。イタリアらしい壮大なアーチ橋を持った、ブリエンツアの街を眼下に一望するとても眺めの良いループ線だったと言われています。

この地形図はループ線の部分がちょっと間違っています
実際は時計回りに下るのが正解。この図では時計回りに上っているように描かれています

  • さすがに攻めすぎだよ
ところが、なかなか挑戦的な計画のマルシコ・ヌオヴォ線だったのですが、沿線人口を全部足しても1万人にもならない山中のローカル盲腸線の行く末は、大方の想像通り「イタリア一の赤字路線」でした。

こちらからお借りしました
ループ線跡のすぐそばに道路橋が作られましたが、廃線跡の構造物は残されました
開業時から旅客列車が1日3往復、貨物列車が週に1往復と惨憺たる運転状況で、1966年に地すべりで不通になったのを機に復旧されることなくさっさと廃止されました。列車の累積運行本数の少なさでかなり上位に来るループ線なんじゃないかと思います。

もともと部分開業ではとても乗客が見込めなかった区間ですが、途中のブリエンツアも終点のマルシコ・ヌオヴォも集落から外れたところに駅を作ったため、地元の人からも「これでは使えん」と言われたそうです。

辛うじて30年間持ったのは第二次世界大戦で被害を受けなかったことと、沿線に小規模な鉱山があったおかげです。ただし鉱山輸送にも取り立てて活躍したという形跡はありません。

現在、線路跡はほとんど道路になっており、ループ線の遺構の側に立派な道路橋が併行して建設されています。




  • 細々と列車が走ることもあるらしい
もう一箇所は長靴のつま先の方、カラブリア州コゼンツァからイオニア海沿岸の工業都市クロトーネを目指したシラーナ線です。


シラーナ線はマルシコ・ヌオヴォ線とほぼ同じ経緯で1910年ごろから工事が始まり、少しずつ東に向かって延伸していきました。ループ線区間の開通は1922年です。

ループ線は標高200mのコセンツァから15kmの標高600mのセッラ・ペダーチェに作られました。ここまでで既に400mも登っていますが、このあと標高1400mまで登る本格山岳路線です。アルプス沿いの山岳地帯を差し置いて、イタリア国内最高所の鉄道路線だそうです。

950㎜ゲージである点もマルシコ・ヌオヴォ線と同じです。イオニア海側の路線も1930年に残り30kmのところまで開通していましたが、最後に残った区間は結局着工されませんでした。

マルシコ・ヌオヴォ線と違った点は、中規模の集落を縫いながらサンジョヴァンニ・イン・フィオーレを結んでいたため、盲腸線ではありましたが2000年代初頭までは比較的順調に運営されていたようです。


ループ線の勾配は33‰、曲線半径100m、高低差約70mとかなりハードなスペックです。残念ながら木立ちに遮られて眺望はほとんどありません。

標高が高いので冬は雪景色になります

このシラーナ線、現在はバスに需要を取られてしまい、一般旅客営業は2010年に廃止されましたが、頂上の近くの一部区間(モッコネ~サンニコラ・シラヴァーナ・マンシオ間約13㎞)で観光鉄道として蒸気機関車が現在も運転されています。詳細は→こちら(トレノ・デラ・シーラ)


ループ線の部分は観光列車の運転区間外なので、現在は実質廃止状態です。ところが、観光列車の車両を麓のコセンツアで整備することがあり、回送列車を走らせるために線路設備は残してあるそうです。いや、どうせなら営業運転してよ、と思いますが。

また、せっかくだからサンジョヴァンニ・イン・フィオーレまでの全区間にシーラ・エクスプレスという名前の展望列車を走らせたらどうかという話が出ていますが(→こちら)、すぐに実現するというわけではなさそうです。



前面展望の動画がありました。→こちら
見事なぐらいに眺望が効かず、ループ線と言われても「はい?」という反応しか返せませんね。2018/7追記


次回は攻める鉄道会社、地中海鉄道MCLのもう一つの廃止ループ線をご紹介します。


2018/04/22

北米⑥D&RGW鉄道ティンティック支線 鉱山とともに消えたアメリカンなローカルスパイラル

  • 賑わいは鉱山とともに
今回はアメリカのデンバー&リオグランデ・ウェスト鉄道(D&RGW鉄道)ティンティック支線にあったゴールデン・サークルというゴージャスな名前のループ線をご紹介します。相変わらずアメリカのループ線はネーミングセンスが秀逸ですね。

貴重なゴールデンサークルの現役時代の写真です
4本映っている列車はすべて同じ向きのユーリカ方面行きです
閉塞もへったくれもない、なんともアメリカンな風景です

このデンバー&リオグランデ・ウェスト鉄道は、デンバー&リオグランデ鉄道がいくつかの鉄道会社と合併して1920年にできた会社です。あのローリンズ峠のループ線を作ったモファット氏のライバルだった会社の末裔です。

ティンティック支線で最後まで残ったのは
パール駅から分岐するゴーシェンヴァレー線でした
こちらからお借りしました
時代とともに勢力範囲と名称を変えながら存続して、21世紀の現在ではついにBNSF鉄道(バーリントン・ノーザン・サンタフェ鉄道)というアメリカ第2位の鉄道会社にまで登りつめています。

ティンティック支線は元はティンティック地方鉄道Tintic Range Railwayというデンバー&リオグランデ・ウェスト鉄道の子会社が作った路線で、1891年に開通しています。ゴールデン・サークルのループ線もこの時の開通です。実は意外と古い歴史のループ線でした。

この鉄道はソルトレークシティ南のユタ湖の南岸を通って、西にある鉱山地帯を結ぶ鉱山鉄道でした。

一帯はグレートベースンと呼ばれる乾燥した盆地で、極めて人口の希薄な地帯です。そんな地域ですが、銀が豊富に採れたため、一気に町が形成され、鉄道が開通しました。

儲かりそうだとあれば節操なく線路を引くのがアメリカ流ですが、この周辺はデンバー&リオグランデ・ウェスト鉄道の縄張りだったので、あまり無茶な路線網にはなっていませんが、細かい鉱山の一つ一つに支線を伸ばして支線群を形成していきます。

  • とにかく線路を敷いてからが勝負

こちらからお借りしました
このティンティック支線が目指したのはEurekaという峠の上の鉱山の街でした。ついエウレカと読みたくなりますが、英語ではユーリカないしはユーレカと発音するそうです。

古代ギリシャ語で「見つけた!」という意味で、なんとなくロマンチックな名前ですが、それよりもアニメの印象が強いですよね。

ちなみに全米にはざっと調べたところ10か所程度Eurekaという名前の街がありますが、大多数は鉱山がらみというのがちょっと面白いです。

ユーリカの街の東側は大昔はボンネビル湖という大きな湖だったそうで、平らな板を傾けたような地形になっています。標高およそ1400mのユタ湖沿岸から今は干上がって水のなくなった谷を縫って峠の頂上付近にあるユーリカまでひたすら坂を上っていく路線でした。


ちなみにユーリカの西側は標高1800mのなだらかな丘陵です。 ゴールデン・サークルは典型的な片勾配の地形に作られた鉱山鉄道線でしたが、ローカル旅客輸送も少なからず実施しています。草木も生えない荒地の中をループしていく見晴らしの良いループ線だったと述懐されています。

ゴールデン・サークルの曲線半径は145m、勾配は30‰、高低差は約30mです。支線とは言っても鉱物の重量輸送を前提に作られたにしては随分低規格です。

一般的にヨーロッパの鉄道と比べてアメリカの鉄道は急勾配、急曲線を嫌がりません。これはアメリカの鉄道建設は民間資本による原則の副作用です。先に開通させたもん勝ち、初期コストをかけたくない、という民間の経営の理屈から出てきた発想でしょう。


  • 受け入れるべき運命とあらがうべき試練
このゴールデン・サークル、一見平凡ですが、よく見ると非常に異色のループ線であることが分かります。

一つは最初からはっきり支線として作られたという点。

アメリカ国内のループ線はここ以外はすべて地域間輸送を狙った幹線上に建設されています。結果的に幹線になりそこなったものもありますが、建設時点から明らかな支線にループ線を作ったのはアメリカでは極めて異例です。それほどこの地域の鉱山輸送が経営的においしかったのでしょう。
※コメントでご指摘をいただきました。建設時点ではネバダ州を横切るつもりだったそうです。それほど大それた野望を持っていたならこの規模のループ線を作ったのも合点がいきます。

ユーリカ周辺のティンティック支線
1940年の機関車大型化よりも後の写真のようです
こちらからお借りしました

もう一つは、世界でも珍しい「付け替えた新線の方が急勾配」なループ線である点。

ティンティック地方の鉱山輸送は第一次世界大戦後に最盛期を迎えますが、ゴールデン・サークルは1940年に廃止されて、短絡線で直接坂を上るルートに変更されました。

資料によると「ゴールデン・サークルの木造橋が火災にあった」という説と「機関車の大型化で木造橋が重量に耐えられなくなった」という二つの説が見られますが、個人的には両者はどちらも正解なのではないかと思っています。

こちらは付け替え後の地図。ループ線がなくなっています。
こちらからお借りしました
木造橋が火災にあったことは事実で、これを復旧する際に、せっかくだから大型機関車を走らせよう、大型機関車ならパワーがあるからループしなくても大丈夫だろう、というある意味合理的な判断がされたものと思われます。

この結果、付け替えられた新線は40‰勾配という強烈な超急勾配路線になりました。

鉱山鉄道という特性上、鉱物を積載した重い列車は下り向きにしか走らないので問題なし、ということでしょう。アメリカの民間会社らしい考えですよね。ちなみに日本では止まれないと危険なので下り坂の方がいろいろと制限が厳しいです。

  • 実はまだ死んでいない
ゴールデン・サークルは1940年に廃止されましたが、新線に切り替わったティンティック支線は戦後もしばらく鉱山輸送が続きました。しかし1960年ごろに鉱山が次々と閉山されて使用頻度が下がって行きます。端的にいうと儲からなくなり、ユーリカへの定期旅客列車は1960年12月を最後に廃止になります。

最近まで運行されていた区間では現在も線路が残っているところもあります
これはパール駅で分岐するゴーシェンヴァレー線と国道6号線の踏切
こちらからお借りしました。
貨物列車の運行はしばらく続いていましたが、1972年にD&RGW鉄道は「ユリーカまでの支線を放棄する」と宣言します。

ただ線路設備はそのまま残してあり、時々列車が走ったりしていたそうで、「宣言」が一体なんのことなのかよく分かりません。

結局1990年代の中ごろに、大規模なレールの盗難にあってしまったせいで、普通の廃線と変わらなくなりました。最後に列車が走ったのは1985年だそうです。

よく見ると書類上ティンティック支線は、正式には廃止ではなくて休止の状態だそうです。実際途中のエルバータ駅までなどの一部の区間では2000年代の中ごろまで時々工事用の資材運搬列車が走っていたそうです。

実は英語の資料を読んでいると、廃止された路線のことをdisused railroad,abandoned railroad,abolished railroadと言葉を使い分けているのが気になっていました。

日本語にすると全部「廃線」ですが、「使わないが管理はする」「使わないので管理しないが所有はする」「管理もしないし所有もしない」という使い分けなんですね。なるほど。





次回はフランスのループ線をご紹介します。

2017/11/21

中国⑫青蔵線旧関角ループ線群 思い出の高山ループ線

  • はるかなる天空へ続く鉄路
今回は中国青海省の青蔵線(通称チベット鉄道)のループ線をご紹介します。

青蔵線は世界最高所を走る鉄道として有名ですが、その成り立ちは極めて政治的な背景によるものでした。

1949年中華人民共和国が成立すると1950年にチベットに侵攻し、中華人民共和国領土であると宣言し、漢民族が大量に入植して人数でチベット人を圧迫していきます。その流れで着工されたのが青蔵線です。結局のところ兵士と入植者をチベットへ送り込むのが最大の建設目的だったことになります。

こちらからお借りしました
1958年にチベットへの入り口だった西寧から工事が始まり、文化大革命の混乱で一時工事がストップしたりしましたが、1979年に西寧~ゴルムド間830kmの第一期区間が開通しました。

高速鉄道を5年ぐらいで作ってしまう中国では、これは異例の長期プロジェクトだったと言えるでしょう。当初は軍用輸送専用でしたが1984年に一般旅客営業を開始しています。

なお、世界最高所を通る「天空の鉄道」として有名な海抜4000m以上の超高地区間は一期の開通区間内にはありません。海抜4000m超区間は2001年着工2006年開業の第二期区間ゴルムド~ラサ間です。こちらは延長1160kmと第一期区間よりも距離が長いにもかかわらず着工から5年で開通しています。


  • 富士山よりも高い大規模ループ線群
さて、青蔵線のループ線はチベット高原の入り口、青海湖の先にありました。元来標高は高くても全体的に比較的なだらかなチベット高原ですが、ところどころ急峻な山脈があり、交通を遮っていました。青海湖とその左下にポツンとあるツァカ湖(チャカ湖、茶卡盐湖)の境にある関角峠もその一つです。青海湖側はなだらかな丘陵になっていますが、峠の西側ツァカ湖側は急激に落ち込む鋭い谷になっています。

こちらからお借りしました
青蔵線は青海湖の周囲をぐるっと回って少しずつ高度を上げていき、峠を標高3800mの旧関角トンネルで越えたあと、深く切れ込む谷に向かって全長24km標高差400mをループ線とヘアピンターンの組み合わせで克服するルートで当初建設されました。

これが旧関角ループ線群です。へアピンターン群のちょうど中央にループ線があり、曲線半径は300m、勾配は15‰でした。ループ線は直近の駅名から二郎ループ線(二郎螺旋展線)と呼ばれていました。

ループ線と7か所のヘアピンターンが合わさった世界的にも大規模なループ線群でしたが、このループ線群は世界最高所にあるループ線でもありました。ループ線群の全体が富士山よりも高いところにあったと聞くとそのスケールに驚きます。


こちらからお借りしました
そのあまりにダイナミックな風景は中国の鉄道写真家の羨望の的でした。中国のループ線のフラッグシップ的位置づけでもあったようです。一応道路はありますが、近づくのも困難なこのループ線の写真がWEB上でいくつも見つかります。

鉄道写真撮影だけでも高山病になりそうで心配になりますし、加えて一番近くの町まで軽く100kmはある人跡未踏の辺境の地だったことも重要です。事故で死んでも誰にも気づいてもらえないところでした。鉄道写真のためにかなり本格的な登山装備が必要な、割と真剣に命がけの撮影だったと思われます。

  • 関角、再見!
冬の写真がほしい、と思ったけどよく考えると無理な注文ですね
こちらからお借りしました
この青蔵線がチベット地区にもたらした交通便益はまさに革命的でした。良いか悪いかは別にして、人も物も交流が一気に進み、もはやチベットは僻地ではないと言われるまでになりました。

さらに輸送強化を図るべく、第二期工事完成前の2005年から輸送力増強工事を実施してゴルムドまでの区間を複線電化することになりました。

この時、旧関角峠の部分は全長34㎞の新関角トンネルを建設して旧関角ループ線群を一気にバイパスしてしまうという中国らしい大胆な計画となりました。

新線の開通で30㎞距離が短くなり、所要時間が2時間短縮されました
この工事が完成した2012年以降、列車はすべて新関角トンネル経由に変更され、旧関角ループ線群は廃止されました。旧線が一般旅客営業していたのは28年間と比較的短命なループ線でした。

この青蔵線、現在はチベット地区への一大幹線となっており、旅客列車が北京、上海、広州、重慶、蘭州と中国各地から1日5往復走っています(重慶発着と成都発着は隔日交互運行、蘭州発着は隔日で西寧止まり)。西寧からゴルムドまで約7時間、ゴルムドからラサまで約13時間かかりますので、全線を日中に乗ろうと思うと途中駅で一泊必要になります。




  • 今なお開発が続くチベット
上の方で少し触れたツァカ湖は「中国のウユニ」と言われる非常に美しい湖で、ちょっと行ってみたいところです。ここにはシーズン中、毎日西寧から観光列車が出ており、西寧から日帰りできます。

また、チベット地区では鉄道建設のビックプロジェクトが目白押しです。

2017年11月現在、ゴルムド~コルラ線、ゴルムド~敦煌線がそれぞれ建設中です。タクラマカン砂漠を貫いて線路を敷くとかスケールでかすぎです。一般旅客営業をすぐ開始するかは分かりませんが、どちらもあと数年で開通する段階だそうです。

東洋のウユニ、ツァカ湖 
ただし本家よりも晴天率が著しく低いため青空の日に当たるには相当な強運が必要だそうです
さらにラサから先、ネパール国境までの鉄道も建設中で、途中のシガツェまでは2014年に開通しています。

またラサ~シャングリラ~大里~昆明の路線も建設中です。

地図上での距離は近くても一切の交通が断絶されていたチベットと雲南省・四川省が鉄道で結ばれるとどういう変化がおきるのか。

長江、メコン川、サルウィン川の三大河川が並んで流れる三江併流地域をどのようなルートで鉄道を建設するのか、興味は尽きません。ここも途中のラサ~林芝間400kmが2021年に開通予定です。

青蔵線自体もロマンあふれる鉄道ですが、今後しばらくチベット地区の鉄道網の発達は見逃せません。



有名なループ線シリーズは今回で終了です。

世界のループ線を紹介して丸2年、だいぶ残りが少なくなってきました。しかも有名なところをまとめて紹介してしまったのでマイナーどころばかり残ってしまいました。これはちょっとマズかったかもしれません。

次回からは残りのループ線をランダムにご紹介していきます。まずはヨーロッパなのかアジアなのか微妙なところにあるロシアのループ線をご紹介します。

2017/10/10

欧州㉖フランス ソンポール峠線セイエルストンネル もうすぐ復活!?悲運の事故廃止ループ


  • ピレネーの巡礼街道を行く国際ローカル線

今回はフランスとスペインの国境地帯ピレネー山脈の廃線ループ線をご紹介します。

ソンポール峠の路線図
現在ベドゥ―~カンフラン間33.2kmは列車が走っていません
フランスとスペインの国境を越える鉄道路線は4ヵ所作られました。大西洋線(仏:アンダイエ~西:イルン1864年)、地中海線(仏:セルベール~西:ポルトボウ1878年)、ピレネー東線(仏:ラトゥールカロル~西:プッチサルダ―1929年)と今回ご紹介するソンポール峠線(仏:ルフォール・ジュ・ダベル~西:カンフラン1928年)の4ヵ所です。

なお、2013年地中海線に標準軌の高速新線が開通し、フランスからTGVの直通列車の運転が始まりました。これを含めると仏西間の国際鉄道路線は現在5ヶ所となっています。

スペイン国内はイベリアンゲージと呼ばれる1668mmの広軌、フランス国内は標準軌です。鉄道創設期にフランスからの侵略を恐れたスペイン側がわざとフランスとは異なるゲージを採用したと伝えられています。スペインは大航海時代に覇権を築いた当時の列強の一画で、仏西間の国際鉄道は思ったよりもずっと早い1860年代から幹線として活躍していました。


  • 国境を越える線路にあった決まり事

仏西間の国際鉄道はちょっと面白い運転形態を取っていました。フランスの列車は国境を越えたスペインの最初の駅まで運転して、乗客も荷物も全部降ろした後、空車回送でフランス最後の駅まで戻ります。スペインの列車も同様に、フランスの最初の駅まで行って回送で一駅戻っていました。

ですので、国境を越える部分はどこも広軌と標準軌の線路が別々に引かれた単線並列の形になっています。現在ではフリーゲージトレインを使った直通特急も走っています。

ところが、このソンポール峠だけは原則と異なり、スペイン国内のカンフラン駅で双方が折り返す形となっています。国境にある全長7800mのソンポールトンネルが標準軌規格で、スペインの広軌の車両が通れなかったためです。さすがにこの長大トンネルを両国の規格で1本ずつ掘るのは経済的に無駄が多く、三線軌条にするには軌間差が少なすぎたということなのでしょう。

ただし、ソンポールトンネルのフランス側に、ル・フォール・ジュダベルという信号場がありますが、信号場~国境間と国境~カンフラン駅間がぴったり同じ距離であることから見ると、原則通りお互いに国境を越えて一駅間だけ乗り入れる形態を検討していたのではないかと思います。

このル・フォール・ジュダベル信号場跡は現在は周囲に何もない不思議な空間ですが、カンフラン駅のような国際連絡駅を作る意図があったとすれば納得です。なお、この信号場は開通早々に休止されたようです。ひょっとすると当初から信号場としては機能していなかったのかもしれません。

このソンポール峠線は1907年のフランススペイン間の合意で建設が始まり、1912年には国境のソンポールトンネルも開通していました。ところが第一次世界大戦のゴタゴタに巻き込まれて、実際に列車の運行が始まるのは16年も後の1928年になってからでした。

もともとこのソンポール峠への通り道アスプ谷は、エル・カミーノと呼ばれるカトリック教徒の巡礼路で、古くから敬虔なクリスチャンが多数行き交う街道でした。日本のお遍路道のようなものでしょうか。→くわしくはこちら 

わざわざこんな険しい谷に鉄道を敷設しなくても、というのはよそ者の考えなのでしょう。この峠を越えること自体に意味があったようです。

ソンポール峠線は、最急勾配43‰のハードな急勾配を克服するべく最初から電化路線として開業しました。ループ線はフランス側の最後の駅、ユルドス駅と谷の最奥部ル・フォール・ダルジュ信号場の間に作られています。

ループ線部分の大半が全長1792mのセイエルス・ループトンネルになっていて眺望は効きませんが、トンネルを抜けて断崖の上に出てきた時に谷を一望できました。トンネル内の勾配は34‰、曲線半径は270m~300m、標高差はループ線部分だけで70mとかなり大型のループ線で、急勾配であることを除けば国際路線にふさわしい立派な規格の路線でした。

  • 悲劇は突然に

ループ線から谷を一望できたようです
こちらからお借りしました。(他にも貴重な写真多数あり)
1970年の早春、峠をカンフランに向かっていた貨物列車が駅の手前で坂を登れなくなってしまいました。

この日は貨物が多く、おまけに機関車の調子が良くなかったため、機関車に備え付けられていた砂撒き装置の砂も全部使いきっていました。

機関士と助手は止まってしまった機関車から下りて、線路の回りの砂を車輪の下にまいていました。

ところが、調子が良くなかったのは実は機関車ではなく変電所の方でした。機関車の出力が上がらなかったのは架線電圧降下を起こしていたためで、停車中に電圧がゼロになって停電してしまいます。

勾配の途中で立ち往生した貨物列車は徐々にブレーキ圧が抜けていき、ついに列車の自重で逆走し始めてしまいました。こうなると機関士たちにできることは何もありません。トウモロコシを満載した貨物列車は5km逆走して時速100㎞を越えるスピードでエスタンゲ鉄橋に激突し、大破してしまいました。

幸いけが人は出ませんでしたが、フランス国鉄SNCFは多額の費用がかかるからと早々に復旧を諦めてしまいます。ソンポール線のベドゥ~カンフラン間はあっさり廃止とされてしまいました。

災害で廃止になった鉄道路線は歴史上まで多数存在しています。岩泉線とか高千穂鉄道など近年の日本でもいくつか実例があります。

ところがこれは災害ではなく事故で、しかも鉄道事業者の責任事故です。それなのに早々に復旧を放棄してしまうのはちょっと不可解な感じもします。もとからいずれは廃止したいという意向だったのでしょうか。フランス国鉄は妙に割り切りがいい時があります。かろうじて残ったベドゥまでの区間も1985年には需要減少を理由に廃止になっています。

いずれにしてもカンフラン線のループ線は今のところ世界唯一の「事故で廃止になったループ線」です。あまり褒められた称号ではありません。

ところが、近年環境配慮の機運の高まりで事態が変化します。2008年に平行する国道が地すべりで片側通行になり、とんでもない大渋滞を起こしたことから鉄道輸送が再評価されることになりました。廃線区間の線路や橋梁などが比較的よく残っていたこともあり、2016年に修復工事を経てベドゥまで旅客運転が復活しました。ただし電化は復元されませんでした。現在は1日5往復のディーゼルカーが走っています。

ソンポール峠線の復活運動はかなり盛り上がっており、地元自治体の資金援助も受けて2020年までにカンフランまでの全線を復活させると鼻息が荒いです。ループ線が華麗に復活するか、ここ数年が勝負どころです。


  • 山間の国境駅カンフラン

ついでですので、国境を越えたスペイン側の路線にも少し触れておきましょう。

上がフランス側、下がスペイン側です
ソンポール峠線の終点、カンフラン駅(スペイン語ではカンフランク駅)は山間に突如出現する巨大な国際駅で、壮麗な建物とフランスから列車が来なくなった絶妙の廃墟感で一部にカルトな人気スポットとなっています。映画の舞台にもなったそうです。

配線図を見るとスペイン規格の線路がフランスからの列車を包むような形になっています。一応ここからスペイン側は現役で、ハカまで1日2往復ディーゼルカーが走っており、列車で訪れることが可能です。

またこのカンフラン・ハカ線には途中に大きなダブルヘアピンがあります。立体交差していないのでループ線ではありませんが、サンホアン陸橋という特大の陸橋で高度を稼ぐなかなかの鉄道名所です。

ひなびた山間部の巨大な国際駅はインパクト絶大です
駅舎内部は現在鉄道博物館になっているそうです








次回はオーストラリアのループ線をご紹介します。

2017/08/31

北米⑤ローリンズ峠ライフルサイトノッチループ  ある鉄道屋が残した線路の物語

  • ロッキー山脈を貫け!

今回はアメリカコロラド州、ロッキー山脈にあったループ線をご紹介します。

アメリカでは鉄道建設は民間資本によるのが原則だったことは何度がご紹介しています。これはメリットデメリット両方あったのですが、有名な鉄道投資家を何人も輩出した効果もありました。日本では阪急の小林一三と東急の五島慶太の二人ぐらいしか思いつきませんが、アメリカには有名な鉄道投資家が各地に数えきれないほどたくさん生まれました。

赤がデンバー・NW・パシフィック鉄道
青がデンバー&リオグランデ鉄道
点線はその他の鉄道
鉄道が乱立しているのはアメリカならではです。
今回ご紹介するコロラド州のローリンズ峠にあるライフルサイトノッチループはそんな鉄道投資家の一人コロラド州デンバーの銀行家、デビッド・H・モファットという人が生涯をかけて開通させた大陸横断鉄道の一つでした。

時代は1890年ごろの話になります。

この時期、コロラドから西海岸のオークランドまで、既に大陸横断鉄道が完成していました。デンバー&リオグランデ鉄道の914mmゲージの路線がロッキー山脈を迂回してプエブロからマーシャル峠を越えるルートで開通しています。

モファット氏は一時期デンバー&リオグランデ鉄道の経営陣に名を連ねていましたが、社内紛争の結果1891年に辞任させられてしまいました。

さらにデンバー&リオグランデ鉄道は、1890年に途中のサライダから分岐してテネシー峠を越えてグランドジャンクションに至る二本目のロッキー越えルートを同じく狭軌で開通させています。こちらは、標準軌の列車も走れるように三線軌とされ、当時はこちらがメインルートになっていました。

鉄道建設に私財を投げ打って奮闘したモファット氏、何が彼をそこまで駆り立てたのかイマイチ分かりませんが、デンバー&リオグランデ鉄道には波々ならぬ対抗心があったようです。

彼はデンバー・ノースウェスト・パシフィック鉄道という会社を作り、「ロッキー山脈を迂回せずに貫け」
”Through the Rockies, not around them." を合言葉に、1902年ライバル会社のルートに距離の短さで対抗する新線の建設に取り掛かりました。

工事は順調というよりもむしろ突貫で進み、1904年には大陸分水嶺のローリンズ峠を越えてアロー駅まで開通します。

有名なライフルサイトノッチのループ線はこの時誕生しました。

モファット氏はもともと長大トンネルでこのローリンズ峠を越えようと目論んでいたのですが、20世紀初頭の技術では無理だったようです。

  • 偉大な志は名前となって今も受け継がれる

さて、このライフルサイトノッチのループ線は全長37㎞の峠越えの途中にあり、最急勾配40‰、冬季は豪雪となる難所中の難所でした。一周1.6kmと当時としてはかなり大規模な輪を描いており、高低差はループ線部分だけで約80mでした。
ライフルの照準に見えなくもないでしょうか

ライフルサイトは文字通りライフル銃の照準のことで、ノッチは”細い道”です。ちょうどループ線部分のトンネルと橋の組み合わせがライフル銃の照準に見えることから名付けられました。

ついでですが、このローリンズ峠越え区間にある駅名やトンネルの名前はアメリカンジョークのような名前が付いていて見ていると面白いです。一見普通の名前に見えるアロー駅、コロナ駅、パシフィック駅なんかもひねりのきいたジョークが隠されてるのかもしれません 。

鉄道にとっては難所中の難所でしたが、雄大なロッキー山脈の中の景色の良い場所を通っており、たちまちアメリカ人に人気の鉄道名所となりました。


ところが、モファット氏が1911年に急死するとデンバー・ノースウェスト・パシフィック鉄道の経営は途端に傾き、1913年にあえなく倒産。西海岸どころかソルトレイクシティにもたどり着けずに工事は中止になってしまいました。

完成していたデンバー・ノースウェスト・パシフィック鉄道の路線はデンバー・ソルトレイク鉄道に吸収されますが、それ以降も何度も経営主体が変わっています。

ただ、ロッキー山脈を迂回せずに貫いた峠の路線はその距離の短さが絶対的優位に働き、既存のテネシー峠を越える路線との連絡線(ドットセル連絡線)が建設されて大陸横断のメインルートの地位を確立していきました。
アロー駅。驚いたことに水平な引き出し線に
ホームを作った日本によくある構造のスィッチバックだったようです。
隣のランチクリーク駅も衛星写真から見る限り同じ構造でした。

1928年、 モファット氏の最初の構想どおりローリンズ峠を越える延長10km勾配8‰のトンネルが開通し、ライフルサイトノッチのループ線は新線に切り替えられて廃止されました。

26年間で使命を終えた比較的短命なループ線でした。新線の長大トンネルはモファットトンネルと名付けられています。西海岸までは届きませんでしたがロッキーを越えるモファット氏の志はトンネルの名前として今も残っています。


  • 古き良きアメリカの魂

廃止されたループ線の方はローリンズ峠トレッスル(通称モファットロード)として遊歩道兼車道になって大部分が残されていますが、トンネルや橋が崩落している部分があります。ちょうどループ線の部分は木造の橋もトンネルもどちらも通行止めで現在は車では通れません。
現在のループ線の状況
雰囲気はよく残っていますがトンネルは埋められています

このライフルサイトノッチのループ線はロッキー山脈に挑んだ点がアメリカン魂を刺激するのか、古くに廃止された割には全米の鉄道愛好家に愛されており、現地の写真が豊富に見つかります。

また、新線となったモファットトンネルにはロサンゼルスとシカゴを結ぶカルフォルニアゼファー号が毎日運転されています。カルフォルニアゼファー号はまる3日間かけて3000㎞を走る超長距離列車ですが、毎日運転されているのは結構すごいです。

西向きに乗った場合は2日目の午前中に、東向きに乗った場合は2日目の夕方にロッキー山脈越えのモファットトンネルを通ります。一部の区間だけでも乗れますので、デンバーから西向きに乗って途中で折り返してくることも可能です。

これも一度は乗ってみたい列車ですね。



次回はドイツのループ線をご紹介します。

2017/07/12

中国⑪浜州線興安嶺ループ 20世紀を駆け抜けた多国籍ループ線


  • その時歴史は動いた

今回は中国東北部、旧満州にあったループ線をご紹介します。

中国領土内にロシアが鉄道を建設した経緯は大変複雑です。このあたりは専門外なのでごく大雑把にまとめると、日清戦争終了後に日本が遼東半島を中国から割譲されましたが(1894年下関条約)、ロシア・フランス・ドイツの三国がこれに介入し、日本は遼東半島の獲得を断念します(1895年三国干渉)。

遼東半島獲得断念の見返りに清朝はロシアに対して満州の鉄道敷設権を与えます(1896年露清密約)。この鉄道敷設権に基づいて、中露国境の満州里から満州を斜めに横切ってウラジオストクの北東の綏芬河まで、全長1500kmの東清鉄道(East China Railway)が建設されました。

1898年から工事が始まり、1904年に開通しています。地図で見るとシベリアの中心都市の一つチタからウラジオストクに向けて、一直線に線路を引いたのがよく分かります。

実はこの鉄道敷設権というのが曲者でした。取り決めにより、鉄道用地が実質ロシア領になったに等しかったのはまだ理解できますが、それに加えて鉄道関係者の生活に必要な土地もすべて鉄道用地と拡大解釈されていきます。

鉄道車両の車庫用地はもとより駅や鉄道関係者の住宅・学校・病院・商店、関係者居住域の警察や軍隊、はては鉄道燃料用の鉱山までなんでもかんでも鉄道用地扱いされ、結局駅や鉱山のある町はまるごとロシア領になったようなものでした。

実態は植民地化されたのと何も変わりません。このような実質植民地の鉄道用地は鉄道附属地と呼ばれ、ロシアをまねて各国が清朝領内に続々と鉄道敷設権を獲得して鉄道附属地が広がって行ってしまいました。詳しくは→こちら

これにはさすがに住民の不満が高まり、義和団の乱(1900年)から辛亥革命(1911年)へと進んでいき、中国の王朝政治の終焉を見ることになります。また、日本ではこの時のロシアの狡猾な立ち回りが不信感を呼び、日露戦争(1904年)の原因の一つとなります。

このように東清鉄道はいろいろ国際政治に波紋を起こすものでした。振り返って見ると三国干渉に基づく鉄道敷設権付与は日露戦争から第二次大戦までの要因にもなっています。

  • ロシア人が作り、日本人が育て、中国人が使う
ロシア時代の線路図
点線は工事中の仮線で3段スィッチバックでした。
本線完成後は撤去されたそうです
ところで満州の地形はおおむね平らな平原なのですが、中央部に大興安嶺山脈が横たわっています。

この山脈よりもロシア側は標高600m程度、中国側は標高200mと高低差がありました。東清鉄道は満州里(チタ)側と綏芬河(ウラジオストク)側の両方から建設が進みましたが、最後まで残ったのがこの大興安嶺を超える部分でした。

東清鉄道はこの興安嶺山脈の高低差を全長3100mの興安嶺トンネルとループ線で越えました。これが興安嶺ループ線です。ロシア語では土木技術者の名前を取ってボチャロフ・スパイラルと呼ばれていました。

開通時のループ線の様子。これは絵でしょうか。
ちょっと山と線路のバランスがおかしいように見えます
こちらからお借りしました
曲線半径は320メートル、高低差は100m、勾配は約15‰です。開通当初はロシア規格の1520mmゲージで建設されています。

このロシア製ループ線は1904年の開通後も数奇な運命をたどります。開通してすぐに日露戦争が勃発し、ロシアが敗北します。

ハルビンから長春を通って大連・旅順へ向かう南満州支線はこの時ロシアから日本に譲渡されて南満州鉄道、通称満鉄となりますが、この満州里~綏芬河間の路線はロシアの鉄道として残り、北満鉄道と呼ばれることになります。

ループの交差部
警備兵用のトーチカが残されているのがロシア製の名残です。
この際、鉄道附属地も管理権ごと満鉄に譲渡されたため、実質日本の植民地となりました。この時代の歴史でよく出てくる関東軍とは、もともと満鉄の鉄道附属地の守備隊です。鉄道会社の社員が行政権を握った町がいくつもあったという不思議な時代でした。

その状態で30年ほど経過し、ロシアがソヴィエト連邦になり、清が中華民国となった1931年に満州事変が勃発し満州帝国が成立すると、1935年北満鉄道はロシアから満州帝国に有償譲渡されて満州国鉄になります。ちなみにこの時の有償譲渡の交渉にあたったのは杉原千畝だったそうです。

現在のループ線の様子
交差部の上部は新南溝信号場で行き違い設備があったようです
 
わざわざ勾配上に行き違い線を作った理由は分かりません。不思議です
1937年には満鉄に合わせて標準軌に改軌します。急激に改軌したため、標準軌用の機関車と貨車が極端に不足する事態となったそうです。

有償譲渡されてから第二次大戦終戦までは日本人経営の満州国鉄の路線だったのですが、終戦後はソ連と中国(国民党政府の中華民国)の共同経営路線となります。

最終的に中華人民共和国成立によりソ連は満州鉄道経営から手を引き、1952年に完全に中国国鉄の運営となりました。

この興安嶺ループはロシア人運営の東清鉄道、日本人運営の満州国鉄、中国人運営の中国国鉄と3つの異なる民族により運営されたことになります。このように相互乗り入れではなくて三カ国の列車が走ったのは世界のループ線の中でここだけです。


  • マニアだけが知るその価値とは

さて、この興安嶺ループ、非常に国際政治に影響を与え、国際政治の影響を受けたループ線だったのは上述のとおりなのですが、ループ線としても超一級のものでした。

こちらは中国時代の線路図
残念ながら満鉄時代のものは軍事機密だったからか
敗戦時に散逸したのか見つかりません

写真で分かる通り、興安嶺ループは地平から築堤で人工的に高度を上げていく非常に珍しいオープンループでした。スイス・ベルニナ線のブルージオと同じ成り立ちで見た目もよく似ていますが、幹線用の高規格で比較にならないほど大規模なものでした。

ループ線の途中には新南溝信号場があり、行き違いができるようにもなっていました。また、自線と交差した後も円の外周に沿ってさらに半回転する1回転半ループだったのもポイントです。

東洋のブルージオと言える素晴らしい形状で、知名度が少ないのは不当だとも言えるほどです。

むしろ興安嶺ループの方が規模も大きく開通も早いので、ブルージオの方を「スイスの興安嶺」と呼ぶべきだったかもしれません。


  • 大地にたたずむ歴史の生き証人

興安嶺ループは中国国鉄として戦後も満州開発、中ソ国際輸送を支えていましたが、中国の鉄道近代化施策の一環で2007年に160km対応の新線に切り替えられ、残念ながら廃止されました。





旧線となったループ線は、興安嶺トンネルや博克図機関庫とともに内モンゴルの文物保護単位(日本でいう重要文化財)に指定されています。

観光鉄道を走らせる計画もあったようですが、今のところ具体的な動きはありません。一応線路も含めて構造物は一通り残されています。




ある意味世界史をも動かした偉大なループ線の遺構は、現在は満州の地でひっそりと余生をすごしています。

次回は北欧のループ線をご紹介します。

2017/06/25

北米④アラスカ鉄道ザ・ループ ループ線が廃止になった前代未聞の理由とは

  • アメリカ最後のフロンティア、それがアラスカ
前回に引き続いてアメリカ合衆国内からアラスカのループ線をご紹介します。

アラスカがアメリカ領になったのは1867年で、割と最近のことです。

当時広大なアラスカはほとんど無人地帯でしたが、1900年ごろ金鉱が見つかり、山師が大量に押しかけてアラスカの町はおおいに賑わったそうです。

それでも1912年のアラスカの人口が58000人だったと言います。「58万人か、面積を考えるとちょっと鉄道輸送には人口が足りないかな」とか思っていたら、さらに一桁少ない5万8千人でした。これではとても鉄道輸送が成り立つ規模ではありません。

実際アラスカの南岸の港町シューワードを起点とする初代アラスカ鉄道は、1903年の開業からわずか6年で倒産しています。その後もいくつかの民間会社が内陸に向けて少しずつ路線を建設しては倒産するということを繰り返します。

鉄道は民間資本で建設されるのが原則だったアメリカですが、ここアラスカでは一般の民間企業が鉄道経営を行うのは経済的に無理だったようです。

1920年代になるとアメリカ連邦政府が民間会社を買収して、例外中の例外で直轄での鉄道運営に乗り出しました。現在は州政府が保有しているので国営鉄道ではなくて公営鉄道となっています。

アメリカ連邦政府が原則から外れてまでアラスカに鉄道を建設したのは、アラスカ内陸部の豊富な鉱物と木材の輸送と、冬の間の交通路確保の意味合いが強かったようです。

ゴールドラッシュ自体は10年ほどで鎮静化します。採掘管理が厳しくなり、誰でも一攫千金というわけにはいかなくなったのが原因です。金が採れなくなったわけではなく、採掘は今も続いています。

そんなアラスカの大地にあるループ線は1909年にシューワード・ウィッティアー間に作られました。氷河地形独特のU字谷の縁を越える位置にあり、全長5km、高低差約80m、最急勾配22‰、曲線半径160mと規模もスペックもごくごく普通のループ線でした。

1952年に新線に切り替えられるまで夏のアラスカの鉄道名所としてアメリカの主要都市でさかんに宣伝され、ループ線は"The Loop"、ループ線の前後の区間は"The Loop District"と地名のごとく呼ばれた全米で有名な鉄道名所でした。

個人的には、この "The Loop"というアメリカ的な豪快な名称がツボなんですが、単にこの周辺の人口が希薄すぎて地名がなかったようです。ちなみに周辺の山、川、町等の名称はほとんどゆかりのある人名に由来したものだそうです。

  • 驚きのループ線廃止の理由とは・・・
このループ線は氷河をまたぐ巨大な木造の橋とトンネルで有名でした。氷河そのものをまたぐ鉄道はおそらく世界でここだけだったでしょう。しかし、この巨大木造橋とトンネルにはメンテナンスにとんでもなく手間とコストがかかるものでした。

文字通り掃いて捨てるほどあるアラスカ産木材を使った
巨大な橋が氷河をまたいでいました
零下40度にもなるアラスカでは、トンネル内や橋梁上の線路がすぐ凍結してしまうため、冬の間は線路際の小屋で薪をたいて四六時中暖め続けるという気の遠くなるような手間のかかる保守をしていたそうです。

結局1952年にトンネルと橋を通らない新線が建設され、ループ線は廃止されました。

ところが、この新線、よく見るとかなり違和感があります。

長大トンネルを作ったわけでもないし、急カーブを解消したわけでもないし、少しルートを変えただけで似たような場所を通っており、勾配緩和にもなっていません。

最初からトンネルと橋のないルートで線路を引けば良かったのでは?なぜ当初わざわざメンテナンスに手間のかかるループ線を建設したのか、とずっと謎に思っていました。

新旧路線図。点線が旧線です。

このループ線地帯の中央部を流れるブレイザー川は1930年ごろまでバートレット氷河という氷河の一部で、アラスカ鉄道の木造の橋は文字通り氷の上に建設されていたのは前述の通りです。ところが調べていくと、温暖化のせいで1940年の後半には鉄道の路盤に影響がないところまで氷河が後退してしまったとありました。

こちらからお借りしました。貴重な現役時代のカラー写真です
そうなると氷河を避けるために作られた木造の橋とトンネルは無用の長物、ただのメンテコストの金食い虫に成り下がってしまいます。

もはや氷河の再前進が起こることはない、と専門家に判定されたことを受けて、冬季におそろしくメンテの手間のかかっていた木造橋とトンネルを廃止して、ヘアピンターン一か所だけのシンプルな新線に付替えられたのでした。


ループ線が廃止される場合の理由は、おおむね「輸送需要の減少」か「勾配をバイパスする新線の建設」のどちらかですが、ここは「地形が変わってループする必要が無くなった」のが廃止理由です。これは世界のループ線の中でも唯一無二の存在で、マニアとしては見逃せません。


  • 冬の鉄道の安心感は異常
アラスカでは今でも道路の通じていない町があり、道路があっても厳寒の極低温期には車が使いにくいため比較的鉄道輸送のシェアが高いのが特徴です。冬季の自動車輸送は、雪と氷で走りにくいのもありますが、ガス欠や故障イコール凍死なので移動手段として危険すぎるそうです。

現在のアラスカ鉄道→公式HPは観光鉄道のような雰囲気に見えますが、厳冬期でも数は減りますが旅客輸送が休止されることはありません。

この区間を通過する旅客列車は夏季は毎日2往復運転されています。

アンカレッジ発のCoastal Classic Train と Glacier Discovery Trainの2列車が旧ループ区間を通過しています。

名物だった木造橋はすでに残っていませんが、今でも車内から氷河を遠くに見ることができます。

  • おまけ~世界最長の併用トンネル
アラスカ西部の不凍港のウィッティアーへ行く路線に、アントン・アンダーソン・メモリアルトンネルという全長4kmのトンネルがあります。これがなかなかの鉄道名所で、世界最長の鉄道道路併用トンネルです。

 このトンネルは零下40度、風速70m/秒になる冬場の気候に耐えられるように設計されているとのことですが、鉄道と道路の共用で車道は一車線分しかありません。

当然、車は一方通行で、1時間に1回、15分間だけ車が通れるそうです。トンネルの両側に大きな駐車場があり、通れるようになるまで駐車場で待ちます。夏場のシーズンなどは2時間待ちぐらいになったりするそうです。

なお、トンネルの通行は鉄道優先で、列車が通過する場合は車の方があらかじめ通行止めになるそうです。

通行料は13ドルと結構高いですね。こちらに詳しく出ています →アラスカ政府公式ページ



なかなかアラスカは鉄道マニア的にも面白そうな場所が点在していますね。





次回はアフリカの絶景ループ線をご紹介します。