2016/08/31

欧州⑬イタリア・イルノ線フラッテループ 不死鳥のごとく蘇ったループ線

  • 世界的観光地がより取り見取り
今回はイタリアの西側、ナポリから近いサレルノのまちなかループ線をご紹介します。

サレルノはナポリの南、特急で40分ほどのところにある人口13万人の古い港町です。港町ですが工業都市というよりも保養地の性格が強く、ソレント半島、アマルフィ海岸、ヴェスピオ火山、ポンペイ遺跡、パエストゥム神殿と言った超著名な観光地も余裕の日帰り圏内です。どこも1時間から2時間程度で行けるので、その気になれば組み合わせ次第で1日2カ所回れそうでもあります。

左手前の山の裏がループ線です
さて、今回ご紹介するイルノ線は、1866年に開通していた南ティレニア本線を経由してナポリへの物流を担うことを主目的に建設されました。当時サレルノを流れるイルノ川沿いには、急流を利用した水力発電をベースに繊維工業地帯が発展してきていました。

計画自体は1880年ごろからあったようですが、イルノ川渓谷をループ線で登る工事が大変な難工事となり、工期が大幅に遅延してスイス人の技術者が自殺してしまうという悲劇に見舞われています。ループ線部分は1893年に完成し、1902年にはイタリア中央部に向かうアヴェリーノ線のメルカト・サン・セヴェリーノ駅までの18㎞が全通しています。
サレルノ近郊の鉄道路線図
赤線の右側がイルノ線、左側がアヴェリーノ線
青線が南ティレニア本線
現在この路線をまとめてサレルノ循環線Circumsalernitanaとして
直通運行する計画が進んでいます

全通後は当初の目論見と異なって、繊維工業がらみの貨物輸送よりも地元の人の地域旅客輸送に積極的に利用されるようになります。

当初蒸気機関車牽引の客車列車が数往復するだけだったのが、1930年代には早くもディーゼルカーが導入され、1日10往復以上運転されるようになっています。このディーゼルカーはイルノ線全線の18㎞を26分~29分で走っており、この時代としては驚くほど俊足でした。

現代の日本の鉄道と比べてみても、信楽高原鉄道が15㎞を23分~25分、九州の甘木鉄道が14㎞を26分、武豊線が19㎞を32分(列車交換2回分の待ち時間を含む)といずれも当時のイルノ線は負けていないどころか速さで上回ってさえいます。1930年代のイルノ線は、ディゼルカーがかっ飛ぶ最先端のローカル線だったようです。

  • 諦めなければ実現する vs 嘘も百回言えば本当になる

ミヌエットも走っています。こちらからお借りしました
ところが、1960年代になるとモータリゼーションが進み、イルノ線は不採算路線ということで1967年にバス転換されてしまいます。

この時イタリア国鉄は利用者に対して事前に告知せず、ダイヤ改正と称して突然全便をバス転換してしまうという荒業を使ったそうです。今ではちょっと考えられませんね。

当然利用者から猛反発を食らいましたが、イタリア国鉄は「廃止ではない。休止だ」と強弁したそうです。

このまま本当に廃止かと思われたイルノ線が復活したのは、1981年に沿線に大学が移転してきたことがきっかけでした。大学側がイルノ線の再建費用を負担して路線を改修し、見事に復活を遂げています。

休止だ、と強弁していたのが結果的には嘘にはならなかったのですが、休止当初から大学の移転が見込まれていたのかどうか、今となっては分かりません。実際に列車の運行が再開されたのは1990年で、休止されてから23年が経過していました。

現在のところイルノ線は、世界中の廃止ループ線の中で、観光鉄道ではない一般の普通旅客鉄道として復活した唯一の例です。この点は特筆しておく必要があるでしょう。

  • ローカル線なのに高規格の謎
フラッテ駅とフラッテトンネルの入り口
こちらからお借りしました
ループ線はサレルノ駅から3つ目のフラッテ駅を出てすぐ始まります。サレルノ駅からフラッテ駅までは3㎞、列車で10分もかかりません。その気になれば歩いて行くことも可能です。

ループの大部分が全長約2400mのフラッテトンネルElicoidale di fratteの中になっており、眺望はあまり期待できません。勾配は19‰、高低差は約90mです。


注目すべきはフラッテトンネル内の曲線半径が450mもの高規格になっているところです。

20世紀初頭のローカル鉄道とは思えない大幹線級のスペックです。これはトンネルが長くなるのを承知で高低差を稼ぎに行ったものと推測できますが、カーブ・勾配・長大トンネルと3拍子揃った難工事になってしまったのも無理ありません。

1909年開通のカナダのキッキングホース峠のループトンネルがトンネル長を抑えるために曲線半径175mの急カーブを採用したのとは設計思想が真逆ですね。不採算でも廃止にならなかったのはこの規格の高さも関係していそうです。

現在イルノ線は平日18往復、休日7往復の列車が走っています。駅が増えて片道30分から35分程度かかるようになっており、かつてのように韋駄天ディーゼルカーを体験することはできません。これはちょっと残念です。

将来的には電化と合わせて大学構内へ直接乗り入れる新線を建設し、サレルノ近郊電車線(サレルノ・メトロ線。メトロと言っていますが地上線です)と直通する計画もあり、さらに発展が見込めそうです。

だいたい1時間に1本ずつ運転されているイルノ線ですが、大学の休暇期間中に運休したり、授業時間に合わせて2時間ほど列車のない時間があったりといろいろ罠があります。

ナポリからも近いのでふらっと乗りに行って半日で戻ってくることも可能ですが、列車の時間はちゃんと調べて行かないとハマりますので要注意です。

  • おまけ ~ 実現していればすごい名所になっていた幻のループ線
ナポリとサレルノを結ぶ南ティレニア本線は日本で言えば東海道線にあたるイタリア西海岸の超重要幹線です。ところがサレルノの町に入る手前に25‰~30‰の急勾配があり、輸送上のネックになっていました。

1915年ごろの計画図
これは実現してほしかった
1910年代に複線化が完成しましたが、急勾配のせいで思ったほど輸送容量を伸ばせませんでした。さてどうしたものか、と当時の人々が頭を悩ませ、その解決策の一つとして考案されたのが勾配を13‰に抑えた新線の建設でした。

この新線の案が右の図の赤線です。二つのループ線の間に鋭いヘアピンカーブがある豪快なループ線計画です。イルノ線のループ線と対をなす形となっているのも強烈。これが実現していればサレルノはループ線の街として世界に名を轟かせたに違いありません。

新設のループ線はナポリ方面行上り貨物列車専用とし、既存線の下り線は客貨両用、上り線はナポリ方面行旅客列車専用にする計画でした。

これが実現していると、峠の途中のヴィエトリ・スル・マーレ駅では貨物列車は上りも下りも同じ方向(山側)から進入してきて同じ方向に出発していくという風景が見られたはずです。ループ線マニアとしてはこれだけで大興奮できます。





結局、このプランは距離が伸びすぎということで却下されました。この輸送上のネックの解消には1977年、サンタルチア・トンネルという全長10kmの長大トンネルの開通まで60年間待たなければいけませんでした。





次回はまちなかループイタリア編の続き、微妙にイタリアではありませんが、サンマリノ鉄道をご紹介します。



2016/08/18

欧州⑫イタリア・サングリターナ鉄道 サンヴィート・キエティーノ 廃止ループ線も一見の価値あり


  • ひそかなループ線王国イタリア

今回からまちなかループ線シリーズのイタリア編をご紹介していきます。イタリアはまちなかループがたくさんあります。まずは、南イタリアのアドリア海側にあるサングリターナ鉄道サンヴィートのループ線をご紹介します。

サンヴィートチッタ駅
ループ線の途中に駅があります
もともとイタリアはイギリス・ドイツに続く古くからの鉄道国だったのに加えて、国土が山がちだったためループ線が多数作られました。国別の建設されたループ線の数では中国の25か所についで2位です。(イタリア16カ所、スイス12ヵ所。現在の国境線で計算しています)

このうち半分近いループ線が需要減から廃線になっており、現在では列車が走っているのは9ヶ所しかありません。「国別廃止されたループ線の数」で実はイタリアは現在世界一のタイトルを持っています。

本来ループ線は「無理してでも山を越える需要があるところ」に作られるもので、それが廃止になるのはループ線をバイパスする別のルートが開設された場合、というのが多いです。

が、陽気なイタリア人は「こまけーこたあいいんだよ」と作ってしまったのかどうか分かりませんが、結果的に需要減で廃止されたループ線が多いのがイタリアの特徴です。いずれそのような廃止ループもそれぞれご紹介していきます。

ちなみに日本にあった山野線の大川ループは国内唯一の需要減による廃止ループですね。

今回ご紹介するサングリターナ鉄道のサンヴィートのループ線も残念ながら2006年に廃止されていますが、ここはループ線を経由しない新線の開通に伴って廃止されたもので、需要減で廃止されたものではありません。

  • がんばれ、地方私鉄

サングリターナ鉄道はイタリア南部アブルッツォ州に路線を持つ私鉄で、ループ線を含むサンヴィート~カステル・ディ・サングロ間が本線です。 1912年にループ線部分が開業して西に向かって延伸していき、1915年ローマへの交通の要衝だったカステロ・ディ・サングロまで全通しました。

他にオルトーナに向かう支線2009年開業の高規格新線で、今のところ貨物専用だそうです。

もとは950mmのイタリアンナローゲージだったのですが、第二次世界大戦中にドイツに破壊されて戦後しばらく全線運休していました。

1950年代の半ばに再建された際に標準軌に改軌されていますが、戦前よりも低規格で復旧しており、とりあえず動けばいい、という感じだったようです。再建時の列車の最高速度は55km/hに制限されていたとあります。

ところがこの低規格が災いして、1980年代ごろから競争力を失っていきました。オルトーナ支線は1982年に廃止になり、本線も西側約半分のアルキ以遠は観光列車が走るのみとなってしまいました。

それでも2000年代初頭まで細々と列車が走っていたのですが、サンヴィートで接続するイタリア国鉄アドリア線が大規模に線路を付け替えて複線化したのに合わせて、サンヴィートとランチャーノ間にループ線をバイパスする新線が作られました。

この時に旧ルートはループ線ごと廃止になってしまいました。ランチャーノ以遠もついでに列車が走らなくなりましたが、ここは将来的には設備を改修した上で復活させる予定だそうです。

結局サングリターナ鉄道で現在旅客列車が残っているのは、サンヴィートから新線経由でランチャーノまでの一駅約10kmの区間だけになってしまっています。


  • もう列車は来ないけど
さて、このサングリターナ鉄道の本線は、サンヴィート駅を出るといきなり全長6kmの巨大なダブルヘアピンで山登りをしていました。海岸線に対して直角に突き出た尾根の上にある標高150mのサンヴィート・キエティーノの市街地めがけてかなり強引なルートで通過しています。



上側のヘアピンはサンヴィート陸橋Viadotto di San Vitoと呼ばれており、海に向かって張り出した陸橋の上を回る大ヘアピンです。イタリア式の美しいレンガ造りの陸橋は、崖の上にある町の風景と合わさって非常に絵になります。

ダブルヘアピンの最後にループ線があり、ループの途中にあるサンヴィート・チッタ駅を通った後、丘の上の平坦な畑の中をランチャーノに向かっていました。全長6kmにも及ぶ巨大なダブルヘアピンで120mほどの高低差を登ります。

ただしループ線部分だけに限ると、半径110m、全長約800mとかなりコンパクトです。最急勾配は37‰と結構急勾配ですが、これはループ線の3分の1が駅になっていて、その部分は平たんにする必要があったためでしょう。ループ線部分の高低差は約20mです。

どうやらここはサンヴィート・キエティーノの市街地の中心部に近いところに駅を作りたかったために、ループ線でわざわざ少し海側に戻る線形を取ったようです。サンヴィート・チッタ駅のチッタは英語でいうシティで、市街地という意味です。山の尾根に沿った市街地にループ線と駅がある風景は独特のものです。

現地の様子はグーグルのストリートビューで見るとよく分かります。(→こちら)また、YouTubeに現役時代の前面展望ビデオがありました。(2:20あたりからループ線、4:39あたりからサンヴィート陸橋)



 新線はサンヴィート・キエティーノ市街地をまったく素通りしてランチャーノに向かうルートになってしまいましたが、イタリア国鉄サンヴィート駅からバスがおよそ1時間に1本程度走っています。列車が20分かけて上っていたところをバスは5分で走り、しかも町の中心まで乗り入れています。

廃止されて10年になりますが、2016年のグーグル衛星写真ではまだ線路がはっきり残っています。

しかし、目につく記事ではすべて「廃止」となっており、利便性もバスの方が上ですので、列車が復活することはもうなさそうです。

海岸沿いのサンヴィート陸橋Viadotto di San Vitoは歴史的にも視覚的にもインパクトが強いものですが、もはや無用の長物となっています。イタリアに行かれる方がおられましたら、取り壊される前に一度鑑賞しておいて損はないのではないでしょうか。



次回はまちなかループ、イタリア編からサレルノのループ線をご紹介します。

2016/08/11

アジア⑦北朝鮮満浦線満浦大橋取付ループ線 ベールの向こうのまちなかループ線 

  • 大陸を目指した日本人たち
今回はヨーロッパを離れて北朝鮮と中国の国境にあるまちなかループ線をご紹介します。

まちなかループ線はヨーロッパ特有のものと思っていたのですが、今回テーマにするにあたって他地域のループ線をひととおりおさらいしてみたら、意外なところにまちなかループがありました。それが北朝鮮と中国の国境の町、満浦(マンポ)のループ線です。

満浦・集安の地形図。鴨緑江を挟んで北朝鮮側は断崖、中国側は広い河原です。
「百年の鉄道旅行」さんのサイトからお借りしました。→こちら
このループ線は1939年(昭和14年)の開通です。中国側は満州国、北朝鮮側は朝鮮総督府の統治だった時代です。

国境より北側は南満州鉄道(満鉄)の梅集線、南側は朝鮮総督府鉄道局(鮮鉄)の満浦線として建設され、国境の鴨緑江大橋を通じて直通列車も運転されていました。

要するにどちらも日本製ということです。ただし、満鉄と鮮鉄は今の某JR同士のように極めて仲が悪かったようです。

満浦の町は清の時代から中国と朝鮮の国境として重要な町でした。

現在の中朝連絡鉄道。オレンジが丹東・新義州、青が集安・満浦、紫が図們・南陽。
TMRはTrans Manchurian Railway(満州横断鉄道)の略と思います。
TCRはTrans China Railwayでしょうか。
中朝の国境線は大部分が鴨緑江と図們江(豆満江)という二つの大きな川に引かれており、鉄道橋は4か所にありました。

西から順に鴨緑江にかかる丹東・新義州間、上河口・青水間、集安・満浦間の3か所と図們江(豆満江)にかかる図們・南陽間です。

このうち上河口・青水間だけは第二次大戦後1950年の開通です。それ以外の3ヵ所はいずれも日本統治時代の満鉄と朝鮮総督府による満朝連絡運輸のために建設されたものです。

この中でメジャーなのは一番黄海側にある丹東・新義州間で、単に鴨緑江大橋と言った場合はこの橋を指す場合が多いです。

この丹東・新義州間の橋は朝鮮戦争で破壊されるまで複線化されていました。

一番北にある図們・南陽間の橋は、新潟・羅津航路経由により最短距離で東京と旧満州の首都長春を結んだ鉄道路線の途上にあったものです。

ここだけは朝鮮領内も満鉄が運営しましたが、戦後はすっかり寂れてしまい現在は国際列車は走っていないそうです。たまたま東京と長春の直線上にあっただけで、中国にとっても北朝鮮にとっても最辺境の地ですので、それも無理もありません。

日本の上越線は1931年(昭和6年)に開通していますが、実は東京新潟間だけではなく、その先満州を見据えていたものだったことは鉄道史を語る上で頭に入れておくべきかもしれません。なお、羅津・長春間の満鉄線は1933年(昭和8年)に全通しています。



  • ループ線だけでも開放してくれないかなあ
この満浦の町は鴨緑江の川面から40mぐらいの高台にあります。満浦から集安に向かう国境連絡線は、この40mの高低差をループ線を使って乗り越えて、国境を越える満浦鴨緑江大橋に繋がります。駅を出るとすぐループ線です。

超貴重なループ線の状態が分かる写真。列車が崖上に見えます。
トラスの向こうに信号機が見えますが、これが場内信号機でしょうか。
だとしたらここはまちなかどころではない「えきなかループ」ということになります。
現地の鉄道写真家のサイトからお借りしました。→こちら
航空写真からしか見ることができませんが実に興味深い風景です。北朝鮮では鉄道は軍事機密事項だそうで、現地の写真を手に入れるのは夢のまた夢です。幸い中国側から望遠レンズで撮影した写真をいくつかWEB上で見つけることができました。

ループ線は駅と直結した形になっており、曲線半径350m、全長は約2㎞です。高低差は地形図読みで約40mですので、20‰~25‰ぐらいの勾配と推定できます。比較的大きめの曲線半径を取っているのは高低差を稼ぎたかったためでしょう。

またループ線の末端では橋を渡らずに川沿いを西へ向かう貨物支線らしき線路が分岐しています。ここも希少な分岐のあるループ線です。

橋左の建物の向こうが満浦駅のはずです。
写真の緑の客車は中国の車両ですね。
「ぶんしゅう旅日記」さんのサイトからお借りしました。→こちら
さらに特徴的なのはこのループ線は一回転していない「一回転未満ループ」である点です。

東から来て北へ向かう鉄橋に繋がっているので、言うなれば回転角270度の「4分の3回転ループ」ですが、これはかなり希少だと思います。

現在、このループ線には貨客混合列車が1日1往復国境を越えて走っていますが、現地の朝鮮民族専用とのことで、日本人が乗るのはまず無理そうです。

歴史、立地、形状と3拍子揃ったなかなか貴重なループ線ですが、生きている間に自由に乗れるようになるとはちょっと思えません。世界中のループ線マニアが訪れる鉄道名所になりうるポテンシャルを秘めているだけに至極残念です。

北朝鮮が民主化されるなどして気軽に行けるようになったら、真っ先に訪れたいと思っているのですが・・・。



  • おまけ~ 中国梅集線老嶺ループ 忘れ去られた不遇のループ線
この満浦から繋がる中国国鉄(旧満鉄)の梅集線にも超地味なループ線がありますのでついでにご紹介しておきます。

梅集線は鴨緑江から離れるに従って標高が上がっていくのですが、結構な急勾配で、最後はループ線で高度を稼いでいます。これが梅集線老嶺ループです。上記のとおり旧満鉄の建設で1938年(昭和13年)の開通です。つまり、鴨緑江を挟んで岸の両岸にループ線があるということです。

中国ループ線一覧。素晴らしい資料なのですが、梅集線以外にも抜けているループ線がちらほら。

満浦ループと老嶺ループは、周辺の土地から見てかなり低いところを流れる鴨緑江を挟んだ双子ループと見ることもできます。

この梅集線の老嶺ループは、数ある中国国鉄のループ線の中で、知名度の低さで他を圧倒しています。おそらく中国人の鉄道ファンですらここにループ線があることに気が付いていないのではないでしょうか。現地写真もまったく見つかりませんでしたし、中国ループ線一覧にも記載されていません。

「中国人女子学生がこのループ線を設計し、その才能を恐れた日本人が日本に来るよう言ったが、女子学生が拒否したのでループ線完成後に殺してしまった」という噂話レベルの真偽不明なエピソードだけがヒットしてきました。これはさすがに超眉唾です。興味のある方は→こちら(中国語)



あまりにもかわいそうな梅集線老嶺ループですが、一応旅客列車も1日1往復走っており、一般の人が普通に訪れることが可能です(ただし北京から22時間かかります)。中国人の鉄道ファンの方の乗車記が見つかりましたが、ループ線についてはほとんど触れられていません。→こちら(中国語)

次回は再びヨーロッパに戻ってイタリアのまちなかループ線をご紹介します。イタリアはまちなかループの宝庫ですので、まずは南側からご紹介します。

2016/07/30

欧州⑪スロバキア 173号線テルガルト・ループ 日本人の知らない絶景ループ線



  • ヨーロッパの片隅にひっそりと

今回はスロバキアのまちなかループ線、テルガルトループをご紹介します。

スロバキア北部の上の茶色がタトラ山脈、下の茶色が小タトラ山脈
スロバキア日本大使館のページからお借りしました
スロバキアは昔の社会主義国家の一つだったため東欧というイメージがありますが、現在では中欧に分類にするようです。東西400㎞南北200㎞あり、スイスよりも一回り大きいぐらいです。第一次世界大戦まではオーストリア・ハンガリー帝国の北端部でした。飛び地となっているギリシャ・バルト3国・フィンランドを除くと、ユーロの使える地域の東端部でもあります。

北隣のポーランドとの国境はすべてタトラ山脈の山地で、ウクライナからルーマニアまで続くカルパチア山脈の一部です。タトラ山脈の南側に並行してもう一本山脈があり、こちらを小タトラ山脈といいます。小タトラ山脈から南側はハンガリー国境にかけて山地が広がっています。スロバキアの国土のほとんどはドナウ川水域です。ごく大まかに言うと国土の東と西に平野があり、中央部は山地という感じです。


今回ご紹介するスロバキア国鉄173号線は細長いスロバキアの領土を東西に結んでおり、小タトラ山脈を超える部分にループ線があります。

  • 帝国の伝統を受け継いで

スロバキアの鉄道の歴史は古く、首都のブラチスラバに鉄道が開通したのはオーストリアハンガリー帝国の時代の1848年です。

スロバキアの鉄道路線は日本の国道のように番号で管理されています。一の位がゼロの路線(110号線、120号線、130号線・・・・)が本線で、おおむねオーストリアに近い西から順番に番号がついています。支線は110号線の支線なら開通順に111号線、112号線と言った感じで付番されます。

この路線番号は旧オーストリアハンガリー帝国鉄道時代からの伝統のもので、スロバキアの鉄道は100番台、チェコの鉄道は200番台と300番台、イタリア方面へ向かう南部線は500番台、ハンガリー方面へ向かう東部線は700番台とされていました。

オーストリアやハンガリーでは旧帝国分裂後にネーミングルールを踏襲しませんでした。現在では路線番号のない路線が開通しています。

チェコでは0番台から番号を振りなおしたため、チェコとスロバキアで同じ番号の路線が生じていますが、かつてチェコスロバキアで同じ国だった時代はどうしていたのか謎です。

本線や支線が10本以上になるとこの番号体系はすぐ崩れてしまうので、鉄道建設が盛んな国ほど早々にこの路線番号を放棄したようですが、幸か不幸かスロバキアではそこまで路線が増えなかったため、今でも当時の番号体系がそのまま使われています。

  • ヨーロッパの撮り鉄が集う

スロバキアの東西を連絡する路線は150号線・160号線の南回りルートと120号線・180号線の北回りルートの二つしかなく、173号線は両者を補完する目的で建設されました。ループ線部分は1934年の開業です。

時期的に第二次世界大戦前の緊張した時代でもあり、現在160号線が通っているスロバキア南部の地域がハンガリーと領土係争の真っ最中でした。そのため東西連絡路線の確保のために建設が進めらました。

なお、南部スロバキアは最終的にドイツの介入で終戦までハンガリー領になっています。

ループ線はテルガルトの町はずれの丘を一周して高度を上げていきます。途中トンネルを出たあたりから眼下に街並みが一望できるところがあり、視界良好なループ線です。

ループ線のトンネル部分は12.5‰勾配、それ以外は17‰勾配になっています。トンネル内の勾配が緩いのは蒸気機関車での通過を勘案したものでしょうか。割と珍しいと思います。現地の様子はこちらが詳しいです。(スロバキア語)


テルガルトの町は人口1500人ほどののどかな町ですが、冬はスキー客、夏は登山客で賑わうマウンテンリゾート地への中継点となっています。

日本ではまったく無名なテルガルトの町とループ線ですが、現地の写真などは比較的容易に見つかります。ヨーロッパ、特にドイツオーストリア方面の鉄道写真愛好家にはそこそこ名前が知られている存在です。

点線は建設時に比較検討された線
たしかにこの比較ならループ線が一番合理的です
探した限りではテルガルトループを通った日本人の方の旅行記は見当たりませんでした。首都のブラチスラバからですら日帰りできないのが痛いところでしょうか。






  • 列車削減流行中

そんなのどかなテルガルト・ループですが、やはり2000年代後半の欧州不況のあおりをもろに受けて、現在は1日2往復しか列車が走っていません。非常にぎりぎりの運転本数です。


2009年春の時刻表では普通列車6往復、快速列車1往復の計7往復14本も旅客列車が運転されていたのですが、ばっさり削減されています。ヨーロッパのローカル線はどこも1日2往復が標準になっているのでしょうか。
テルガルト・ペンジオーン駅
単行ディーゼルカーの普通列車は現在は走っていません
また、173号線では現在残っている2往復はすべて快速列車です。普通列車を削減・廃止して快速列車を残し、小駅を見捨てるのはJR北海道っぽいですが、それも一つの戦略かなと思います。

普通列車が廃止された時に、より町の中心部に近いテルガルト・ペンジオーン駅が快速停車駅になっており、現在ではテルガルト駅に停車する旅客列車はありません。

2009年の時刻表では首都ブラチスラバまで直通の快速列車が走っていましたが、これも廃止されて現存の列車は全便途中のバンスカ・ビストリッツァ発着です。


ブラチスラバからバンスカ・ビストリッツァまで特急で3時間30分、そこからテルガルトまで2時間です。通過するだけでも日帰りはかなり困難です。

日本人が少ないことは間違いないのですが、さすがにここを乗るのは難易度が高そうです。

それでもやはりヨーロッパの片隅にたたずむループ線は風情があって一度は訪れてみたいところではあります。





次回は北朝鮮のまちなかループ線をご紹介します。ヨーロッパ以外では唯一といってもいい貴重なまちなかループ線です。さすがに情報が少なすぎて記事1本分の文章が書けるか自信がありませんが頑張ります。



2016/07/17

欧州⑩フランス フォントワ線オーダン・ル・ティッシュ大鉄橋 領土争いの果てに

  • 兵どもが夢の跡
今回はルクセンブルグとの国境にあるフランスの鉱山の町、フォントワ線オーダン・ル・ティッシュのループ線をご紹介します。ここは過去500年にわたってドイツとフランスが領土を争ったロレーヌ地方、ドイツ名でロートリンゲンと言われた地域です。

超大雑把に言うと、もともとドイツ系の住民が住んでいたのですが、1600年代にフランスが占領し、1700年代前半は神聖ローマ帝国が奪還してドイツ領となったところを、1700年代後半から1800年代前半まで再びフランスが支配、1870年から第一次大戦までビスマルク率いるプロイセン領、第一次大戦後から第二次大戦までの戦間期はフランス領、第二次大戦中はナチスドイツ領、戦後またフランス領という経緯をたどっています。歴史についてはこちらが詳しいです。

灰色の部分は鉱山地帯
オーダン・ル・ティッシュのティッシュとはドイツ語のことで、直訳すると「ドイツ語のオーダンの町」という意味になります。

この町から20㎞ほど南にオーダン・ル・ロマンという町がありますがこちらは「ロマンス語(=フランス語)のオーダンの町」という意味で、ちょうどこの二つのオーダンの町の間にドイツ系住民とフランス系住民の境があったことが分かります。オーダン・ル・ロマンの方は戦争中以外は一貫してフランス領でした。

この地方で話されるドイツ語は標準ドイツ語とはかなり異なり、ドイツ領だった時期も普通のドイツ人とは一体感を持ちづらかったようですが、さりとてパリのフランス政府のいうことを聞くのもいやだ、というなかなか難しい地域感情があるようです。

ここまで帰属が揺れ動くと、住民も自分がドイツ人なのかフランス人なのかよく分からなくなってしまうようです。実際、第一次大戦直後にはアルザス・ロレーヌ共和国として独立を宣言しましたが、これはあっさりフランス軍に鎮圧されてしまいました。

長々と歴史の話を書いたのは、ループ線の成立と実は密接に関わっているからでして、このループ線のあるフォントワ線が完成した1904年はこの地方はドイツ領の時代でした。ドイツ帝国鉄道直轄のエルザス・ロートリンゲン鉄道が鉄鉱石輸送用に鉄道を開設しています。

  • 世界でも珍しいデルタ分岐付きループ線

フォントワ線はルクセンブルグ・フランス・旧ドイツ領にまたがる鉱山を目指して南側から建設されていきました。フォントワ線のすぐ西側のフランス領内にも平行してフランス国鉄のヴィルリュプト線がありますが、これは独仏がお互いの領土を通らないで鉱山に直結しようと競って線路を引いた名残です。
点線が旧国境。ひげのついた線は工場の引き込み線です
リュムランジュ・ブランジュ間の路線だけは第二次大戦後の開業

おかげでたかだか30km四方の狭い範囲に鉄道が乱立しました。20世紀後半の鉄鋼不況のあおりでほとんどが廃止になっていて、今ではこの地域一帯は廃線跡パラダイスと化しています。

フォントワ線のループ線は大きな弧を描いて町を一周し、オーダン・ル・ティッシュ大鉄橋で自線をオーバークロスしてドイツ本国方面へと向かっていました。どちらかというとループ線に沿って後から町ができた感じです。ループ線の内側は大きな積み出しヤードだったようです。

ループ線は全長5km高低差50mで勾配は10‰です。鉱山列車は一般的には下りが積載車、上りが空車となる場合が多いのですが、ここでは鉱石を満載した状態で坂を上ることになるため、超重量輸送を考慮して緩勾配で作られています。

こういうところはさすがドイツ製という感じがしますが、実際は細長いドイツ領内だけを通り、できるだけゆるい勾配でドイツ本国方面へ向かう苦心のルート選定の結果、大鉄橋を使ったループ線になったものと思われます。



フォントワ線の配線図
オーダン・ル・ティッシュ駅の規模の大きさに注目
ルクセンブルク側からみたオーダン・ル・ティッシュ大鉄橋

また、フランス領のユシニー・ゴドブランジュまでを結んでいたレダンジュ線がループ線内で分岐していたのも大きな特徴です。分岐のあるループ線は日本では四国にありますが、実は世界的にもかなり珍しいものです。しかもここは三角線になっていました。

レダンジュ線は、当初旧ドイツ領内のルダンジュ鉱山までの路線でしたが、第一次大戦中の1917年にドイツ軍がこの一帯を占領した時にユシニー・ゴドブランジュまで列車が直通しています。

フォントワ線もレダンジュ線もまとめて第一次大戦後にフランス国鉄に編入されています。しかし、そうなると今度は線路が多すぎることになってしまいますが、元からフランス国鉄のヴィルリュプト線の方が先に廃止されています。(ユシニーゴドブランジュ~ヴィルリュプト・ミシュヴィル間1978年廃止、ヴィルリュプト・ミシュヴィル~ティエルスレ間1983年廃止)

  • 再び列車が走るかもしれない

フォントワ線は1999年にオーダン・ル・ティッシュ~フォントワ間の旅客営業が廃止されました。貨物輸送はその後もしばらく続いたようですが、今はそれも廃止されています。

現在はループ線の全線を乗ることはできなくなってしまっていますが、近年廃止区間のフォントワ線沿線の町が国境を越えてルクセンブルグに通う人たちのベッドタウンとなってきており、じわじわと発展しています。

沿線の道路が貧弱なこともあって通勤鉄道路線として根強く復活運動がなされており、2007年には行政裁判所が廃線の構造物の撤去を保留するよう採決したという記事がありました。

現在もエルゼ・シュル・アルゼット~オーダン・ル・ティッシュ間の一駅間だけを1日33往復、終日にわたっておよそ30分間隔で列車が走っており(ただし休日は全便運休)、ルクセンブルグ側からオーダン・ル・ティッシュ大鉄橋をくぐることは比較的容易です。「欧州ローカル列車の旅」さんのサイトに実際に乗られた時の様子がアップされています。現地の様子がよく分かります。→こちら


オーダン・ル・ティッシュの街並みと大鉄橋
右端にホームが見えます
左側の駐車場から森にかけてすべて線路でした
現地の方の鉄道ファンサイトThe Railways in and around Luxembourgさん
からお借りしました。→こちら


これは貴重な現役時代の写真です。
フランス側から見た風景。2000年の撮影だそうです。
よく見ると橋脚は複線分あります
複線化するつもりだったんですね

オーダン・ル・ティッシュ駅はルクセンブルグ方面にしか列車はありませんし、フランス領土内を走るのはほんの1km程度ですが、いまだにフランス国鉄SNCFの管理になっているのは、ひょっとすると将来のフォントワ方面への旅客列車復活の布石なのではないかと期待してしまいます。これまでにご紹介した廃止ループ線の中ではかなり復活の見込みの強い方だと思います。

ヨーロッパの鉄道は多かれ少なかれ戦争の影響を受けているもんですが、フォントワ線の歴史は戦争の歴史そのものでもあります。

今また難民問題などで揺れるヨーロッパですが、平和な町の庶民の足としてループ線が復活するといいのですが。




次回は東欧、スロヴァキアのテルガルトループをご紹介します。