2018/10/30

欧州㉘スイス・フルカ峠鉄道 世界唯一のラック式併用ループ線

  • ループ線の最終形態
今回はスイスのループ線を二つご紹介します。

スイスのシンプロン峠の街ブリークとゴッダルド峠の街アンデルマットの間にフルカ峠という標高2400mの峠があります。

ループ線上では行き違い設備はありませんので、この写真は多重露光だと思います。
こちらからお借りしました。
ここをマッターホルンゴッタルド鉄道というメーターゲージの私鉄が通っています。ブリークの標高は670mで、フルカ峠の最高所2160mまで48kmで標高差1490mを登り切る、平均勾配が30‰にもなる超ハードな山岳鉄道です。

標準勾配が66.7‰、最急勾配が110‰というとんでもない路線ですが、さすがに110‰勾配を粘着式で走るのは物理的に難しかったためラック式を併用していました。

ここのラック式は日本でおなじみのアプト式です。

この路線はスイス・イタリアを結ぶメインルートだったシンプロン峠とゴッタルド峠を相互に補完する形になっています。

地形的には峠の西側が地中海に注ぐローヌ川水域、東側はチューリッヒ湖経由で北海に注ぐライン川水域で、大陸分水嶺の一つになっています。

グレンギオルスループトンネルを走る氷河特急
 ここは、昔から人の往来が活発な峠だったようです。1915年と比較的早い時期に鉄道が開通しています。

当初は蒸気機関車による運行でしたが1941年に電化されました。

このフルカ峠の西麓はローヌ川の作る氷河谷が極めて深かったため、鉄道を通すにあたって2ヶ所ループ線が作られました。

下のループ線はグレンギオルス・ループトンネルという名称で、66.7‰、曲線半径80mの小規模なものです。それでも高低差は40mほどあります。ほぼ全線がトンネル内ですが、トンネルを出たところで谷側を一望できます。

こちらからお借りしました

  • U字谷をループ線の最終形態で乗り越えろ
ここの見どころは上のループ線、グレッチ・ループトンネルです。

なんと、勾配が110‰のラック式併用区間に作られています。ラック式とループ線を同時に併用して斜面を克服したのは世界でもここだけです。逆に言うと、普通は鉄道敷設を諦めるべき地形だということでしょう。

U字谷の最奥部にループ線があります。
右上の崖の高い木の根元あたりにトンネルの出口があります。


そのため、曲線半径90m全長600mほどの小規模なループ線にもかかわらず、高低差は70mにもなっています。

以前はこの二つのループ線は直通列車が走っていたのですが、上の方のラック式を含む峠越え区間は冬は豪雪の難所でした。そのため冬期間中は電化区間にもかかわらず架線を外し、鉄橋もすべて収容して運休となっていました。

さすがにこれでは輸送需要をまかないきれなかったため1982年にこの区間をバイパスする全長15kmのフルカベーストンネルが建設され、上のループ線グレッチ・ループトンネルを含む峠越え区間は廃止されました。

ところがこの氷河を望む峠越え区間の景勝を惜しむ声が強く、2000年にはグレッチ以東が、2010年にはループ線を含む全区間が観光列車として再建されています。 ただし電化は復元されず、蒸気機関車での運行になっています。

再建された時に、この観光列車区間だけは別会社となったため、現在はグレンギオルス・ループトンネルとグレッチループトンネルを一乗車で連続走行する列車はありません。

  • 手軽に楽しめるスイスのループ線
現在、このグレッチ・ループトンネルを含む観光列車区間は6月後半~9月の3ヶ月強の間だけ、1日1往復~3往復の列車が運転されています。


下のループ線グレンギオルス・ループトンネルは、現在でもマッターホルンゴッダルド鉄道の一区間として地域間輸送の役割を担っており、1日に氷河特急を4往復を含む23往復の列車が走っています。日中はほぼ1時間に1往復の列車が走るので、乗るのは簡単です。

フルカベーストンネルの開通前はレーティッシュ鉄道ベルニナ線に直通してティラノまで行く氷河特急があり、ベルニナ線で1ヵ所、アルブラ線で4ヵ所、フルカ峠で2ヶ所の計7か所のループ線を1日で走破できるというループ線マニアには夢のような列車が走っていました。おそらく一列車でのループ線最多通過列車だったと思います。

先に述べたとおり、フルカ峠の上のループ線は観光列車専用ですので、現在では氷河特急に乗っても最大6ヶ所しかループ線を走破できません。

しかも2018年夏ダイヤではベルニナ線直通列車は運休になっており、アルブラ線経由でサンモリッツが終点ですので、ベルニナ線のブルージオスパイラルまで直通していないため最大で5ヶ所です。


いずれにしても1泊もすればスイスのループ線はあらかた走破できます。さすがループ線大国ですね。





あっと言う間に2か月も更新をさぼってしまいました。
ちょっと反省して次はできるだけ早く更新したいと思います。
次回はアメリカの謎の多いループ線をご紹介します。

2018/07/16

欧州㉗イタリア・地中海鉄道ラゴネグロ線 結局廃止になった地中海鉄道の傑作ループ線

  • 今はなき傑作路線のループ線

今回は、前回に引き続いてイタリアの迷鉄道会社、地中海鉄道MCLの作った3か所のループ線のうちの最後の一つ、ラゴネグロ線のカスペルッチオ・スパイラルをご紹介します。

1977年ループ線周辺を走るサヨナラ列車だそうです。
こちらからお借りしました
このラゴネグロ線は、ほとんどが全通できなかった地中海鉄道会社の路線の中にあって珍しく全線開通した950㎜の鉄道です。

地中海鉄道の概要に関しては前回のエントリをご参照ください。→こちら

起点は前回ご紹介したマルシコ・ヌォヴォ線の起点アテナ・ルカーノから南へ30㎞ほどイタリア国鉄線を走ったところにあるラゴネグロで、標準軌の国鉄線の終点です。

ここから複雑なアップダウンで半島を横断して、イオニア海側の国鉄線のスペッツァーノ・アルバネーゼ駅まで104kmを結んでいました。

この路線は海側から建設が始まり1915年に最初のカストリヴィラッリ駅~スペッツァーノ・アルバネーゼ・テルメ駅間の28㎞が開業しました。

例によって人口の少ない山の中を通る路線で、このカストロヴィラッリはラゴネグロ線沿線で最大の街ですが、それでも人口3万人ほどです。

1929年にはラゴネグロ駅~ライーノボルゴ駅間が開業、1931年には残りの峠の区間も開通し、地中海鉄道念願の半島横断がついに実現しました。

ループ線は1929年ラゴネグロ駅~ライーノボルゴ駅間が開業した時にカステルッチオ・スペリオーレ駅とカステルッチオ・インフェリオーレ駅の間に作られました。

曲線半径は上半分が100m、下半分が120m、勾配は地中海鉄道の標準規格でもあった60‰でした。カステルッチオ・スペリオーレ駅とカステルッチオ・インフェリオーレ駅間の3kmという比較的短い駅間距離で、160mもの高低差を上下しています。


  • 狂ってる?それ、褒め言葉ね
このラゴネグロ線、世界でも二カ所しかないラック式とループ線の両用線区だったことが最大の特色でした。ループ線だけでは高低差を吸収しきれなかったため、ラック式併用の100‰勾配を設けて無理やり乗り切るという荒業を使った地中海鉄道の傑作路線でした。ちなみに残りのもう一箇所のラック式併用ループ線はスイスのフルカ峠です。

ラゴネグロ線の勾配断面図。赤線はラック式区間です。
3カ所にピークのある複雑な上下動をする路線でした。
ループ線は左から右に向かって二つ目の谷に向かう下り坂の途中にありました
ラゴネグロ線には起点のラゴネグロ駅と隣のリベッロ駅間と、終点近くのカッサーノ駅前後に2ヶ所、合計3か所のシュトループ式という簡易な方式のラック式区間が設けられています。

ラゴネグロ駅~リベッロ駅間のラック式区間は85‰勾配の途中に全長200m高さ40mのセッラ陸橋を作って、その陸橋の上をラック式で登るという、現代から見るとかなり「頭おかしいの?」的なルート選定がなされています。

ド派手なセッラ陸橋。もはやオーパーツと言っても過言ではありません
こんな深い谷を直接跨ぐことはしないで、遠巻きするルートにするのが普通でしょう。陸橋でショートカットしたためにかえって勾配がきつくなっているようにも見えます。

建設年代を考えるととんでもなく傑出した土木技術ではありますが、ラック式で最高速度が時速15kmに制限されており、まるで時間短縮にはなっていません。

むしろ谷を遠巻きして30‰ぐらいの勾配にした方が距離が伸びても到達時間は早かったのではないかと思います。

どうも技術力を誇示したかったがためのラック式大規模陸橋ルートだったかのように思えてなりません。プロモーションビデオっぽいものがYouTubeにありました。これは必見です。



  • 創業と守成といずれか難き
ところが、せっかく全通したラゴネグロ線ですが、率直に言ってルート選定に無理があったようです。1952年に地すべりでセッラ陸橋が折れ曲がってしまって不通になってしまいました。

地すべりで折れ曲がったセッラ陸橋
今でもこの状態で放置してあるそうです
日本だと危ないと言って即撤去されそうです

こちらからお借りしました
地すべりと和訳しましたが、数年単位で地面が動く土地隆起に近い Bradyseismという現象だそうです。ほれ見ろ言わんこっちゃない、と突っ込みたくなりますよね。

セッラ陸橋を含む区間はバス代行にして営業は継続されましたが、1970年に今度は海側のラック式区間でエイアノ川にかかる鉄橋が流されてしまい、ここも不通となります。

つまり国鉄線に通じる両端部分がどちらも運転できない状態になってしまいました。

それでも両端区間をバス代行して離れ小島の中間部分だけで頑張って営業を続けていましたが、1978年についにギブアップ。全線廃止となり、この時にループ線も廃止されました。結局全線を通して列車が走っていたのは1931年から1952年までの約20年強だけだったことになります。

  • 我こそは地中海鉄道マニア
さてさて、この地中海鉄道、調べれば調べるほど面白い鉄道会社です。それだけで別のブログが立ち上げられそうな勢いですが、ここでは簡単にこの鉄道会社の特徴を列記してみましょう。いずれも後知恵の結果論の部分もありますが、そこはご容赦ください。

まず、最初に押さえておきたい特徴は「豊富な資金を持っていた」「かなりの高度な土木技術力と車両技術力があった」「需要とは無関係に壮大なイタリア南部路線網構築を夢見ていた」、この3点です。

地中海鉄道の路線図を再掲しておきます
現存しているのは中央上部のポテンツァから
右上のバーリを結ぶ路線だけです
これらの要素が複合して「無理なルート選定を無駄に高い技術力で補った、むしろ補えてしまった」「イタリア半島を横断することばかりに捉われて、都市間の移動需要にはまるで無頓着だった」という点が出てきます。

もともと粘着鉄道で最小曲線半径80m、勾配60‰(しかも連続勾配)は相当無理があるのですが、なぜか地中海鉄道ではこれがスタンダードで、どの線もこの規格で作られています。

ところが大型車は走らせられないし、スピードは上げられないしで第二次大戦以降自動車にまったく対抗できない主要因になってしまいました。その豊富な資金と技術をまっすぐ平坦に線路を敷くことに向けていれば、違った結果になっていたかもしれません。

無理なルート選定は、災害運休が続発したことに繋がりますが、とりあえず部分開業した路線が軒並み赤字路線になってしまったのも、突き詰めるとルート選定の問題と言えそうです。

さらに壮大な鉄道路線網を夢見て何か所も同時に着工した挙句、どこも全通できなかったのもまずかったです。末期は赤字盲腸線ばかりになって保守もままならなかったようです。ただし全通してももともとも需要のないところに引いた低規格な路線ばかりなので、どこかのタイミングで廃止された可能性が高いです。

地中海鉄道は、末期には豊富だった資金も底を付き、ついに1961年に整備不良による脱線転落事故を起こして多数の死者を出し、イタリア政府から事業免許を取り消されるという空前絶後の最後を遂げました。路線はすべてカラブロ・ルカノ鉄道(FCL)という別の民間会社に引き継がれています。

こうして見てみると地中海鉄道はマーケティング的経営学的観点からでは相当ダメな鉄道会社だったと言わざるを得ませんが、地方の一民間鉄道会社が3つもループ線を作ったその技術力・資金力と、ひたすらに半島横断にかけた情熱はむしろ讃えるべきかもしれません。とは言え整備不良で事故を起こして多数の死傷者を出すのはNGですね。

個人的には、この「細けーことはいいんだよ」的なノリでループ線をがんがん作って、もれなく廃止した地中海鉄道、嫌いではなくむしろ大好きです。




ループ線とは関係ありませんが、インフェリオーレ、スペリオーレと聞くと日本語で優等劣等のイメージがあってそんな言葉地名に使っていいのかよ、と思いますが、イタリア語では単に土地の高低を表すものでしかないようです。イタリア国内にインフェリオーレ、スペリオーレを頭に付けた地名がたくさん見つかります。日本語で下カステルッチオ、上カステルッチオと言ってるのと同じ感覚なんでしょうね。

次回は、上で少し触れたスイスのフルカ鉄道のループ線をご紹介します。



2018/06/05

欧州㉖イタリア・地中海鉄道 ブリエンザ&セッラ・ペダーチェ 果たせなかった半島横断

  • 超攻撃的鉄道会社、得意技は無理攻め

今回はイタリアの廃止ループ線を二つまとめてご紹介します。

1900年代初頭に設立された歴史に残る迷鉄道会社「カラブロ・ルカノ間のための地中海鉄道会社」が建設した3か所のループ線のうちの二つです。イタリア語でMCLと略します(Mediterranea=地中海、Calabro-Lucane)。

立派な土木構造物に客車一両のアンバランス
60‰の連続勾配を蒸気機関車で登っていたのは衝撃です(後年はディーゼル化されています)
技術的には超一級です。こちらからお借りしました

この地中海鉄道MCLは、もともとイタリア南部の鉄道路線の資産保有会社でした。実際の鉄道の運行にはタッチしない投資会社のようなものでしょうか。

それが1905年イタリア国鉄が設立された際に、保有するイタリア南部の標準軌路線が国鉄にがっさり買収されて、多額の現金を手にします。

この現金を使ってイタリア南部に壮大な、現代から考えると無謀なローカル鉄道ネットワークを自前で建設することにしました。こうしてイタリア南部の山岳地帯に次々と鉄道路線建設に着手していきます。

地中海鉄道MCLの路線図
黒線は国鉄線、赤線はMCL社線。点線は未成線。
なお、赤線部分も現在は大部分が廃止されています
ところがイタリア南部の半島中央部には標高1500m級の山脈が走っており、東のイオニア海側の沿岸と西のティレニア海側の沿岸を結ぶのはそう簡単ではありません。

比較的線路を通しやすいところには既に標準軌の国鉄線があったので、それ以外の残ったところはどこもドン引きするレベルの険しい山岳地帯ばかりでした。

それにもめげずに地中海鉄道はいくつかの東西連絡線を着工し、そのうち3か所にループ線が作られています。

まず一つ目はマルシコ・ヌオヴォ線のブリエンツア・スパイラルです。

このマルシコ・ヌオヴォ線はカンパーニャ州南端の街アテナから、イオニア海沿岸を目指した950㎜のイタリアンナローゲージ路線です。

途中山脈を何度も横切るドSなルート選定で、鼻息荒く1911年に着工しましたが、第一次世界大戦の影響で開通したのは1931年と、だいぶ工事に時間がかかってしまいました。しかも、起点のアテナ・ルカーノからマルシコ・ヌオヴォまでの30㎞弱だけの部分開業を余儀なくされています。

標高450mのアテナを出るといきなり分水嶺の峠を8kmで400mも上り、そこからループ線を使って標高700mのブリエンツアの街まで下るというダイナミックな路線でした。ループ線部分の勾配は60‰、曲線半径90mという粘着鉄道の限界スペックです。イタリアらしい壮大なアーチ橋を持った、ブリエンツアの街を眼下に一望するとても眺めの良いループ線だったと言われています。

この地形図はループ線の部分がちょっと間違っています
実際は時計回りに下るのが正解。この図では時計回りに上っているように描かれています

  • さすがに攻めすぎだよ
ところが、なかなか挑戦的な計画のマルシコ・ヌオヴォ線だったのですが、沿線人口を全部足しても1万人にもならない山中のローカル盲腸線の行く末は、大方の想像通り「イタリア一の赤字路線」でした。

こちらからお借りしました
ループ線跡のすぐそばに道路橋が作られましたが、廃線跡の構造物は残されました
開業時から旅客列車が1日3往復、貨物列車が週に1往復と惨憺たる運転状況で、1966年に地すべりで不通になったのを機に復旧されることなくさっさと廃止されました。列車の累積運行本数の少なさでかなり上位に来るループ線なんじゃないかと思います。

もともと部分開業ではとても乗客が見込めなかった区間ですが、途中のブリエンツアも終点のマルシコ・ヌオヴォも集落から外れたところに駅を作ったため、地元の人からも「これでは使えん」と言われたそうです。

辛うじて30年間持ったのは第二次世界大戦で被害を受けなかったことと、沿線に小規模な鉱山があったおかげです。ただし鉱山輸送にも取り立てて活躍したという形跡はありません。

現在、線路跡はほとんど道路になっており、ループ線の遺構の側に立派な道路橋が併行して建設されています。




  • 細々と列車が走ることもあるらしい
もう一箇所は長靴のつま先の方、カラブリア州コゼンツァからイオニア海沿岸の工業都市クロトーネを目指したシラーナ線です。


シラーナ線はマルシコ・ヌオヴォ線とほぼ同じ経緯で1910年ごろから工事が始まり、少しずつ東に向かって延伸していきました。ループ線区間の開通は1922年です。

ループ線は標高200mのコセンツァから15kmの標高600mのセッラ・ペダーチェに作られました。ここまでで既に400mも登っていますが、このあと標高1400mまで登る本格山岳路線です。アルプス沿いの山岳地帯を差し置いて、イタリア国内最高所の鉄道路線だそうです。

950㎜ゲージである点もマルシコ・ヌオヴォ線と同じです。イオニア海側の路線も1930年に残り30kmのところまで開通していましたが、最後に残った区間は結局着工されませんでした。

マルシコ・ヌオヴォ線と違った点は、中規模の集落を縫いながらサンジョヴァンニ・イン・フィオーレを結んでいたため、盲腸線ではありましたが2000年代初頭までは比較的順調に運営されていたようです。


ループ線の勾配は33‰、曲線半径100m、高低差約70mとかなりハードなスペックです。残念ながら木立ちに遮られて眺望はほとんどありません。

標高が高いので冬は雪景色になります

このシラーナ線、現在はバスに需要を取られてしまい、一般旅客営業は2010年に廃止されましたが、頂上の近くの一部区間(モッコネ~サンニコラ・シラヴァーナ・マンシオ間約13㎞)で観光鉄道として蒸気機関車が現在も運転されています。詳細は→こちら(トレノ・デラ・シーラ)


ループ線の部分は観光列車の運転区間外なので、現在は実質廃止状態です。ところが、観光列車の車両を麓のコセンツアで整備することがあり、回送列車を走らせるために線路設備は残してあるそうです。いや、どうせなら営業運転してよ、と思いますが。

また、せっかくだからサンジョヴァンニ・イン・フィオーレまでの全区間にシーラ・エクスプレスという名前の展望列車を走らせたらどうかという話が出ていますが(→こちら)、すぐに実現するというわけではなさそうです。



前面展望の動画がありました。→こちら
見事なぐらいに眺望が効かず、ループ線と言われても「はい?」という反応しか返せませんね。2018/7追記


次回は攻める鉄道会社、地中海鉄道MCLのもう一つの廃止ループ線をご紹介します。


2018/05/19

欧州㉕フランス・アゼルグ線クラヴェゾル・ループ ローカル線に残るハイスペックループ線

  • 昔民営、今国営
今回は、フランス国鉄アゼルグ線のリヨンに近い丘陵地帯にあるクラヴェゾル・ループをご紹介します。

フランスは現在の鉄道網はすべて国有で、フランス国鉄SNCFが管理していますが、鉄道黎明期はアメリカと同じ民間資本建設が原則でした。ところが、アメリカと違い、鉄道建設には必ず補助金が支出され、補助金を得た企業が基本的にその地域の鉄道建設を独占するというシステムになっていました。

このやり方でフランスは私企業間の路線建設合戦を回避しながら、民間資本で鉄道路線網を拡張していきます。

最盛期はフランス国内の鉄道路線網の総延長が6万kmに達していました。日本の鉄道がJR私鉄含めて3万キロ弱でフランスの国土面積が日本の1.5倍程度であることを考えると、ものすごい線路の密度だったことが分かります。

ところが、普仏戦争と第一次世界大戦で国営鉄道網を軍需輸送に目一杯使ったドイツ軍にぼこぼこにされ、さらに1930年ごろから自動車の普及が進み、民間経営では限界があるとして、1930年代の後半にすべての鉄道が国営化されます。フランスはやることが極端です。

これ以降フランス国鉄SNCFは路線網の縮小に手を付けていくことになります。現在フランスの鉄道網は約2万9000kmといいますから、鉄道網の半分以上が廃止されたことになります。

  • 「縁の下の力持ち」、それが私の生きる道

さて、フランスの一番の幹線鉄道、パリ・リヨン・マルセイユ線は1856年に開通しています。この路線はヨーロッパで初めて地中海と大西洋を結んだ鉄道で、開通してすぐ輸送容量がひっ迫するほど大繁盛しました。

PLM鉄道は増大する輸送需要に応えようとパリ・リヨン間にバイパス線を建設することにします。こうして建設されたのがアゼルグ線でした。アゼルグ線は平地を選んで東に迂回した既存のパリ・リヨン・マルセイユ線と違い、丘陵地帯をまっすぐ突っ切ってパリリヨン間を最短距離で結び、1900年に開通しました。

このフランス中央部の地中海と大西洋の分水嶺を超えるところに作られたのがクラヴェゾル・ループです。フランス国内では最古の歴史を持つループ線です。勾配は11‰、曲線半径300m、一周4.3kmとかなり大規模ですが、高低差は40mほどと意外と控えめです。

歴史があって眺望も良く規模も大きい割に地味、というのがこのクラヴェゾル・ループの特徴なのですが、もともと主として貨物輸送のバイパス線として建設されたことが大きく影響しています。

アゼルグ線は重量貨物列車の通過を前提に作られており、路線自体がパリ・リヨン間の主要な中規模都市を避けて人口の少ない風光明媚な丘陵地帯を通っています。勾配や曲線半径が当時としては異常に高規格なのもこれが理由です。20‰勾配を許容すればループ線がなくても地形的には十分ルート選定が可能だったと思われますが、あえてループ線を使って11‰勾配に抑えて作ってあります。

尾根をはさんで両側の谷に駅があります。
クラヴェゾルはスタシオン=Stationなので停留所みたいな意味でしょうか。
フランス語ではガールGareの方が大きい駅を意味するそうです
もう一つクラヴェゾル・ループが作られた理由として、Y字型に分かれた谷の両側に駅を作りたかったのではないかと個人的に推測しています。

クラヴェゾル・ループにはサン・ニジエ・ダゼルグ駅とクラヴェゾル駅という二つの駅が作られていますが、両者は駅間距離が1.8㎞しかありません。

クラヴェゾル駅はホーム一本の小駅で列車運転上はなくてもいい駅なのですが、クラヴェゾル駅周辺の集落を無視できなかったのではないかと思います。


  • 沈む瀬あれば浮かぶ瀬あり
もう一点特筆しておくべきことは、このクラヴェゾル・ループ、世界でも珍しい複線路盤のループ線として建設された点です。 山岳ループ線で現存しているのは、スイスのゴッタルド・バーンレッチュベルグだけです。それがこのフランスの丘陵地帯のほとんど貨物専用の路線にあったことは驚きです。開業時はかなりの交通量を期待されていたことが窺えます。よほどパリ・リヨン・マルセイユ線の輸送逼迫度合いは緊急事態だったのでしょう。

開通当初のクラヴェゾルループ。
驚愕の複線路盤です。こちらからお借りしました

さて、アゼルグ線は開通後順調にバイパス線としての役割を果たして大活躍していたのですが、第二次世界大戦が終わるとパリ・リヨン・マルセイユ線がモータリゼーションの普及で旅客列車が減少した上に、貨物ヤードの整備が進んで線路容量に余裕が出てきました。

そして、1950年代にパリ・リヨン・マルセイユ線が電化されると、貨物列車のほとんどがパリ・リヨン・マルセイユ線経由でまかなえるようになってしまいました。

アゼルグ線はだんだん通過する列車が減り、TGVが開通してパリ・リヨン・マルセイユ線経由の旅客列車がTGV経由になると、とうとう1995年に単線化されてしまいました。貨物列車も2000年代初頭に全廃されており、これはかなりヤバいと思っていましたが、今のところなんとか土俵際で踏みとどまりつつ現在を迎えています。

2018年5月現在、平日1日4往復、土休日2往復のディーゼルカーがこのループ線を走っています。なお、2018年5月は「ストライキ期間特別ダイヤ」で大減便されているそうなので、近々に現地に行ってみようかなという方はご注意ください。

アゼルグ線の見どころミュシー・ス・デュンの大陸橋 Viaduc de Mussy-sous-Dun
このあたりはボジョレーワインの産地だそうです。
フランス国鉄SNCFは、注意してみてみると割と冷酷に地方路線を切り捨てる傾向にあります。

アゼルグ線もかなり危ない状況だったのですが、脱自動車という近年の環境意識の変化の流れでいきなり廃止になる危険性はだいぶ緩和されているようです。

さらに、パリ・リヨン・マルセイユ線や高速道路に何か事故があったら物流ルートをアゼルグ線に迂回させるというリスク管理の考え方を行政側が示しており、アゼルグ線は当面の廃止の危機は脱した模様です。

南フランスの美しい丘陵地帯を行くアゼルグ線、今でこそローカル線風情満載ですが、幹線規格の残る今でも有事に備えるスーパーサブ路線なのです。TGVを駆使すればパリから日帰りもできなくはないところですので、一度訪れてみたいですね。





次回はイタリアの廃止ループ線を二つまとめてご紹介します。

2018/04/22

北米⑥D&RGW鉄道ティンティック支線 鉱山とともに消えたアメリカンなローカルスパイラル

  • 賑わいは鉱山とともに
今回はアメリカのデンバー&リオグランデ・ウェスト鉄道(D&RGW鉄道)ティンティック支線にあったゴールデン・サークルというゴージャスな名前のループ線をご紹介します。相変わらずアメリカのループ線はネーミングセンスが秀逸ですね。

貴重なゴールデンサークルの現役時代の写真です
4本映っている列車はすべて同じ向きのユーリカ方面行きです
閉塞もへったくれもない、なんともアメリカンな風景です

このデンバー&リオグランデ・ウェスト鉄道は、デンバー&リオグランデ鉄道がいくつかの鉄道会社と合併して1920年にできた会社です。あのローリンズ峠のループ線を作ったモファット氏のライバルだった会社の末裔です。

ティンティック支線で最後まで残ったのは
パール駅から分岐するゴーシェンヴァレー線でした
こちらからお借りしました
時代とともに勢力範囲と名称を変えながら存続して、21世紀の現在ではついにBNSF鉄道(バーリントン・ノーザン・サンタフェ鉄道)というアメリカ第2位の鉄道会社にまで登りつめています。

ティンティック支線は元はティンティック地方鉄道Tintic Range Railwayというデンバー&リオグランデ・ウェスト鉄道の子会社が作った路線で、1891年に開通しています。ゴールデン・サークルのループ線もこの時の開通です。実は意外と古い歴史のループ線でした。

この鉄道はソルトレークシティ南のユタ湖の南岸を通って、西にある鉱山地帯を結ぶ鉱山鉄道でした。

一帯はグレートベースンと呼ばれる乾燥した盆地で、極めて人口の希薄な地帯です。そんな地域ですが、銀が豊富に採れたため、一気に町が形成され、鉄道が開通しました。

儲かりそうだとあれば節操なく線路を引くのがアメリカ流ですが、この周辺はデンバー&リオグランデ・ウェスト鉄道の縄張りだったので、あまり無茶な路線網にはなっていませんが、細かい鉱山の一つ一つに支線を伸ばして支線群を形成していきます。

  • とにかく線路を敷いてからが勝負

こちらからお借りしました
このティンティック支線が目指したのはEurekaという峠の上の鉱山の街でした。ついエウレカと読みたくなりますが、英語ではユーリカないしはユーレカと発音するそうです。

古代ギリシャ語で「見つけた!」という意味で、なんとなくロマンチックな名前ですが、それよりもアニメの印象が強いですよね。

ちなみに全米にはざっと調べたところ10か所程度Eurekaという名前の街がありますが、大多数は鉱山がらみというのがちょっと面白いです。

ユーリカの街の東側は大昔はボンネビル湖という大きな湖だったそうで、平らな板を傾けたような地形になっています。標高およそ1400mのユタ湖沿岸から今は干上がって水のなくなった谷を縫って峠の頂上付近にあるユーリカまでひたすら坂を上っていく路線でした。


ちなみにユーリカの西側は標高1800mのなだらかな丘陵です。 ゴールデン・サークルは典型的な片勾配の地形に作られた鉱山鉄道線でしたが、ローカル旅客輸送も少なからず実施しています。草木も生えない荒地の中をループしていく見晴らしの良いループ線だったと述懐されています。

ゴールデン・サークルの曲線半径は145m、勾配は30‰、高低差は約30mです。支線とは言っても鉱物の重量輸送を前提に作られたにしては随分低規格です。

一般的にヨーロッパの鉄道と比べてアメリカの鉄道は急勾配、急曲線を嫌がりません。これはアメリカの鉄道建設は民間資本による原則の副作用です。先に開通させたもん勝ち、初期コストをかけたくない、という民間の経営の理屈から出てきた発想でしょう。


  • 受け入れるべき運命とあらがうべき試練
このゴールデン・サークル、一見平凡ですが、よく見ると非常に異色のループ線であることが分かります。

一つは最初からはっきり支線として作られたという点。

アメリカ国内のループ線はここ以外はすべて地域間輸送を狙った幹線上に建設されています。結果的に幹線になりそこなったものもありますが、建設時点から明らかな支線にループ線を作ったのはアメリカでは極めて異例です。それほどこの地域の鉱山輸送が経営的においしかったのでしょう。
※コメントでご指摘をいただきました。建設時点ではネバダ州を横切るつもりだったそうです。それほど大それた野望を持っていたならこの規模のループ線を作ったのも合点がいきます。

ユーリカ周辺のティンティック支線
1940年の機関車大型化よりも後の写真のようです
こちらからお借りしました

もう一つは、世界でも珍しい「付け替えた新線の方が急勾配」なループ線である点。

ティンティック地方の鉱山輸送は第一次世界大戦後に最盛期を迎えますが、ゴールデン・サークルは1940年に廃止されて、短絡線で直接坂を上るルートに変更されました。

資料によると「ゴールデン・サークルの木造橋が火災にあった」という説と「機関車の大型化で木造橋が重量に耐えられなくなった」という二つの説が見られますが、個人的には両者はどちらも正解なのではないかと思っています。

こちらは付け替え後の地図。ループ線がなくなっています。
こちらからお借りしました
木造橋が火災にあったことは事実で、これを復旧する際に、せっかくだから大型機関車を走らせよう、大型機関車ならパワーがあるからループしなくても大丈夫だろう、というある意味合理的な判断がされたものと思われます。

この結果、付け替えられた新線は40‰勾配という強烈な超急勾配路線になりました。

鉱山鉄道という特性上、鉱物を積載した重い列車は下り向きにしか走らないので問題なし、ということでしょう。アメリカの民間会社らしい考えですよね。ちなみに日本では止まれないと危険なので下り坂の方がいろいろと制限が厳しいです。

  • 実はまだ死んでいない
ゴールデン・サークルは1940年に廃止されましたが、新線に切り替わったティンティック支線は戦後もしばらく鉱山輸送が続きました。しかし1960年ごろに鉱山が次々と閉山されて使用頻度が下がって行きます。端的にいうと儲からなくなり、ユーリカへの定期旅客列車は1960年12月を最後に廃止になります。

最近まで運行されていた区間では現在も線路が残っているところもあります
これはパール駅で分岐するゴーシェンヴァレー線と国道6号線の踏切
こちらからお借りしました。
貨物列車の運行はしばらく続いていましたが、1972年にD&RGW鉄道は「ユリーカまでの支線を放棄する」と宣言します。

ただ線路設備はそのまま残してあり、時々列車が走ったりしていたそうで、「宣言」が一体なんのことなのかよく分かりません。

結局1990年代の中ごろに、大規模なレールの盗難にあってしまったせいで、普通の廃線と変わらなくなりました。最後に列車が走ったのは1985年だそうです。

よく見ると書類上ティンティック支線は、正式には廃止ではなくて休止の状態だそうです。実際途中のエルバータ駅までなどの一部の区間では2000年代の中ごろまで時々工事用の資材運搬列車が走っていたそうです。

実は英語の資料を読んでいると、廃止された路線のことをdisused railroad,abandoned railroad,abolished railroadと言葉を使い分けているのが気になっていました。

日本語にすると全部「廃線」ですが、「使わないが管理はする」「使わないので管理しないが所有はする」「管理もしないし所有もしない」という使い分けなんですね。なるほど。





次回はフランスのループ線をご紹介します。

2018/03/25

中国⑬川黔線大河壩ループ ギリギリ生き残った幹線ループ


  • 中国の発展を支えたループ線

 今回はループ線大国中国の重慶と貴陽を結ぶ川黔線にあるループ線をご紹介します。

重慶貴陽間が川黔線です。
香港を目指しているのがこの図で分かります


 川黔線はせんけん線と読みます。川黔線の川は四川省、黔は貴州省の略称です。現在重慶市は直轄市となって四川省から分離したため、四川省内を通っていないのに正式名称は川黔線のまま取り残された形になっています。

 マスコミや市民には重慶市の略称の渝(ゆ)の字を使って渝黔(ゆけん)線あるいは渝貴線と呼ぶ方が一般的だそうです。蛇足になりますが、重慶市は人口3千万人、面積8万平方キロと余裕で小さ目のヨーロッパの国一つ分ぐらいの規模があります。面積ではオーストリアと同じぐらいですね。

 川黔線は以前ご紹介した黔桂線と合わせて、八縦八横と呼ばれた中国の鉄道幹線網の西から2番目の縦のラインを形成しています。



 川黔線黔桂線のラインも厳しい地形を越えていますが、宝成線成昆線よりは随分ましです。重慶、貴陽、柳州、桂林と重要都市を結んで海沿いの広州を結んでいることもあって、開通直後から超大列車が行き交う大幹線となっています。

 川黔線は実は清朝時代の1911年から建設計画がありましたが、実際に開通したのは中華人民共和国成立後の1965年のことです。この1960年代前後は中国南西部の骨格となる重要路線がたくさん開通しています。宝成線は1958年、成昆線は1970年の開通です。 これらの路線はいずれも現在まで中国の発展を支える大動脈です。


  • ループ線を抜けるとそこは高原地帯

 さて、川黔線は長江の流域では最大規模の都市重慶を起点に、まっすぐ南下して貴陽を目指す全長500km弱の路線です。中国の幹線にしては割と短めです。




大河壩駅からの眺め。
中央右寄りにループ線の下層部を走る列車が映っています。
こちらからお借りしました
全線が長江の水域になりますが、細かく見ると北側の約200km弱が長江本流の水域、中間部の桐梓前後の約100kmが重慶から150km上流で本流に合流する赤水河の水域、南側貴陽周辺の約100kmが重慶の約100km下流で本流に合流する烏江の水域です。赤水河も烏江も支流とはいえ500kmぐらい長さのある日本で言えば利根川クラスの大河ばかりです。



 今回ご紹介する大河壩ループは、この本流と赤水河の分水嶺の峠に作られています。峠の北側は標高600m程度の狭い谷ですが、南側は標高900mぐらいの高原地帯になっています。一方、赤水江と烏江の境には目立った標高差はなく、分水嶺の山脈をトンネルで越えるだけです。川黔線は重慶を出て約200kmは上り勾配で、その後はほぼ標高900m前後を走る片勾配の路線ということになります。



こちらからお借りしました
大河壩ループは狭い谷の片側の起伏をうまく使って高度を稼ぐという、なかなかテクニカルなルートを選定しています。曲線半径は250m、勾配は16.7‰で高低差は約100m。細長い独特の形状のループ線です。

 ループ線の出口には大河壩駅が作られており、そのホームからループ線のおよそ半分を見渡すことができます。

 この駅は谷底の川辺にある大河鎮の集落からはかなり山を登ったところに駅があることになりますが、これは分水嶺の向こう側の標高900mを目指して高度を上げて行っている途中だからですね。


  • まさに紙一重での生き残り

 さて、この川黔線、つい先日までは客貨合わせて1日50往復の列車が走る超過密路線だったのですが、路線が古いため全線にわたって最高速度60kmに制限されており、500km弱を特急列車でも9時間かかっていました。

 ところが、つい先日の2018年の1月、重慶~貴陽間の高速新線が開業し、旅客列車が一斉に新線に移りました。重慶~貴陽間はなんと最速2時間10分になっています。



下に向かって上り坂です。こちらからお借りしました
高速新線では旅客列車だけで1日48往復、日中はほぼ20分ヘッドで列車が行き交っています。それでも時間帯のいい列車は1ヶ月先まで予約で売り切れになっていますので、それだけ輸送需要が大きい区間だったのでしょう。この所要時間短縮と列車本数倍増はかなりの交通革命だと思われます。

 この高速新線の開通に伴って心配された旧線の処遇ですが、幸いなことに廃止されずに貨物用として存続しています。旅客列車が走らなくなっても1日20往復の貨物列車が走っており、堂々たる幹線であり続けています。



 これだけなら旅客列車がなくなって残念という話なのですが、なぜかこの区間、2往復だけ旅客列車が残されているというので驚きです。



 重慶・貴陽間の列車時刻表を見ると2時間~2時間40分程度の所要時間の列車がずらりと並ぶ中に、1本だけ8時間58分もかかる列車があって異彩を放っています。この1往復が現在も引き続き旧線経由で運転され、ループ線を通過している列車です。この列車は西安行の直通列車で、新線を走れない旧型車両による運行のために残されたのでしょう。(2018年3月現在南行K4633列車・北行K4634列車 →2020年4月現在新線経由に置き換わったようです





 また、上記の他に重慶から途中の遵義までの区間列車一往復が旧線ループ線経由で走っています。この列車は重慶から遵義までの300kmを10時間もかかって走るものすごい鈍足列車です。確証はありませんが、スピードの遅さと停車駅の多さから見てこれは客貨混合列車ではないかと推測しています。貨車併結で高速新線を走れないという理由で旧線経由で残されたのではないでしょうか。(2018年3月現在南行5629列車、北行5630列車 →この列車は2020年4月現在まだ健在です




高速新線の遵義駅。中都市の駅ですが、この威圧感はさすが中国

 上に紹介した2往復4本の列車は、高速新線の停車駅遵義駅ではなく旧線上の遵義西駅に発着しており、ループ線と遵義西駅の間に高速新線と旧線を行き来できる線路はありません。従ってこの2往復4本の列車がループ線経由であることは現時点では確定しています。



 しかし、いずれも過渡的措置の臭いがぷんぷんしますので、興味のある方は今のうちに乗っておきたいところです。個人的にはループ線マニアとして今すぐにでも乗りに行きたいところですが、なかなかひょいと行けないところがつらいです。

 なお、2018年2月の春節期間中は、この2往復以外に臨時列車が数本旧線経由で運転されていましたが、これも来年以降どうなるか分かりません。


  • 悠久の大河を渡るループ線(ただし絶滅寸前)

 川黔線にはもう一カ所見逃せないところがあります。

 川黔線の起点重慶駅は長江の北岸の狭い中心部に作られましたが、高速鉄道を建設するにあたって駅を拡張する余地がなかったため、中心部から20㎞ほど離れたところに重慶西駅を作り、重慶の南と西の貴陽・成都方面からの高速列車をそこに集約しました。なお、重慶の東と北側から来る列車は同じように中心部から10㎞ほど離れたところに作られた重慶北駅に集約されています。




重慶市域の国鉄路線図。是非拡大してご覧ください。

 この拡張に伴って既存の重慶駅は成都方面発着専用となったのですが、新しい重慶西、重慶北駅と既存の重慶駅を連絡線で直結したため、もともとあった連絡線も含めて重慶周辺の鉄道路線は大変複雑になり、路線図好きの人には楽しい区域になっています。





 川黔線は以前、重慶を出ると成都方面へ行く成渝線と同じ線路を30㎞ほど走り、小南海駅で成渝線と別れて白沙沱長江大橋で長江を渡って南に向かっていました。実はここがループ線構造になっていて、毎日多数の列車がループして白沙沱長江大橋を渡っていたのですが、日本ではほとんど知名度がありません。



 白沙沱長江大橋は余裕で関門海峡ぐらいの川幅があるところを渡る特大の鉄道橋で、これだけでも見所になってもおかしくありません。規模的にもドイツのレンツブルク・ハイブリッジにひけを取らないのですが、ちょっと不遇ですね。






圧倒的存在感の新橋、奥が旧橋。
こちらからお借りしました。
 現在は重慶西駅へ直結する高速鉄道対応の新白沙沱長江大橋が開通し、そちらに旅客列車は移転しました。この新白沙沱長江大橋は上層が複々線の高速線、下層が複線の貨物線という2層式6線の超大規模鉄道橋(おそらく世界最大)です。これはこれですごいです。詳細は→こちら








 ところが白沙沱長江大橋の旧橋の方は、将来的には廃止される予定ですが、2018年3月現在、まだ貨物列車が若干走っています。おそらく新長江大橋前後の貨物線の取り付け工事が完了していないためでしょう。

 その中には重慶方面へ直通する列車も含まれており、先ほどの重慶・遵義間の5629列車・5630列車もここを経由しています。



 この列車だけ重慶西駅発着ではなく、重慶駅発着で小南海駅も停車しています。時刻表が正しければ、ループ線を通って旧橋を渡らないと川黔線方面には行けません。この5629列車/5630列車は客貨混合列車ではないかと推測しましたが、これもその根拠の一つです。( →2020年4月現在5629列車/5630列車は小南海駅を通過するようになりました。旧橋を通っていたとしてもループ線を通らない連絡線経由になっている可能性があります




 ・・・ということはこの5629列車/5630列車、廃止寸前のループ線二つにまとめて乗れる実に貴重な列車だということになります。広大な中国を走る多数の列車の中で、最もアツい激アツ列車と言っても過言ではありません。



 いつまで走っているかわかりませんが、取り付け線の工事などすぐ出来てしまうことでしょう。書いていると乗りに行きたくなってきました。やばいです。










次回はアメリカのループ線をご紹介します。



2018/02/15

欧州㉔スペイン ア・コルーニャ線ラ・グランハ・スパイラル 異色の巨大スパイラル

  • 情熱の大輪ループ線
今回はスペイン北西部、ポルトガルとの国境付近にある異色のループ線をご紹介します。

ピレネー山脈よりも南のイベリア半島はいわゆるヨーロッパとは気候も雰囲気も大きく異なります。歴史上イスラム教の影響下にもあったこともあります。

1910年ごろのスペインの鉄道路線図
ループ線は図中央のレオンから海沿いのアコルーニャに向かうオレンジ色の線上にあります
図中の黒い線はメーターゲージの路線です。
スペインの国土は海岸部は断崖で内陸部は標高500m~1000mの台地となっています。従って海岸部から内陸に向かう際には必ず山を登る必要がありました。フライパンを裏返したような地形と言えばだいたい合っていると思います。

さて、一時期は世界征服も夢ではなかったスペイン帝国ですが、17世紀に入るとイギリスに海上での争いで負けて没落してしまいきます。18世紀には王朝が途絶えたり、ナポレオンのフランスに占領されたり、アメリカと戦争してぼこぼこにされたり、まさに踏んだり蹴ったりの100年間を経験します。

鉄道もヨーロッパ諸国が1848年にバルセロナで開通したのが最初で、他のヨーロッパ諸国と比べると10年~20年程度遅れていました。

それでも1850年代には鉄道投資熱の高まりに乗って各地に鉄道が建設されており、急速に路線網拡大していっています。

そんな中でどうしても海岸沿いに出るところで急勾配になる地形的制約に苦しめられることになります。イベリアゲージと言われる1668mmのブロードゲージは山間部の路線建設にひどく難航し、標準軌を採用しなかったことを当時のスペインの鉄道技術者は随分後悔したそうです。スペインでは海岸沿いを中心に1000mmのナローゲージ路線が残っているのは山間部のブロードゲージ路線建設を諦めてナローゲージ路線を敷設した名残です。

このア・コルーニャ線も内陸側からはブラニュエラスまでが1868年に、海岸側からはルーゴまでが1875年に開通していましたが、ループ線を含む部分の開通は1883年のことになります。この間、列車はブラニュエラス止まりで「coachでルーゴまでの約50kmを連絡していた」そうです。ここでいうcoachはバスではなく文字通り馬車だろうと思います。ヨーロッパではゴッタルドバーンに次ぐトップクラスの歴史の古いループ線でもあります。

もともと海洋国家だったスペインは海岸沿いに有力都市が多くあり、王室のあったマドリードと海岸沿いを結ぶ路線はどこも重要路線だったと言えます。ア・コルーニャ線もそのような海岸沿いの有力都市と首都を結ぶ幹線と位置付けられています。

  • いまだ色あせない往年の世界一
さて、このループ線、最初からブロードゲージの幹線規格で作られていました。山の尾根をダイナミックに使った壮大なループ線です。

輪の大きさは一周5.8kmあり、1883年の開通から2004年に中国の水柏線の3重ループ線が開通するまで実に120年間、世界最大のタイトルを保持していました。曲線半径は最小280m、勾配は20‰、輪の大きさを目一杯使ってトータル220mの高低差を登ります。建設時期を考えるとかなりの高規格と言えるでしょう。



あまりにも輪が大きいのでループ線ぽい写真は撮りづらいようです
ループ線の向き(写真では右巻き)とは逆の左カーブである点も注目
あまりにも輪が大きかったので、ループ区間中にも直線がふんだんにあり、なかなかループしている感覚が掴みづらいという特徴があります。さらに、ループとは反対方向に曲がる逆向きの曲線まである点がマニア的には要チェックです。

この「ループ線の途中に、ループとは逆向きの曲線のあるループ線」というのはあまり他に思い当たりません。世界唯一とは断言しにくいのですが、かなり珍しいものだと思います。

レオン側から来ると台地の上のブラニュエラス駅を出て山の尾根沿いに進み、5km以上もあるループ区間を通り、トンネル・デル・ラソで自線の下をくぐります。ラソはスペイン語で輪の意味なので、英語に訳すとループトンネルというそのままの名前になります。

また、現在の世界の大輪ループ線を見てみると、1位の韓国のソラントンネルは全区間トンネル内、2位の中国水拍線も全体の3分の2がトンネル内ですが、このグランハ・スパイラルは交差部のトンネル・デル・ラソも含めて比較的短いトンネルばかりです。大きな谷を豪快に見下ろす長いループ線の車窓風景は抜群です。(ちなみに4位はブルガリアのシプカ峠のループ線、ここもあまり車窓には期待できません)

  • 将来不透明ながら、今のところは特急街道
この区間には駅が3か所ありました。ループの途中、山の中腹にあるのがラ・グランハ駅、トンネルエルラーゾのすぐ手前にあったのがラ・シルヴァ信号場、ループトンネルを抜けた後にあるアルバレス信号場です。

ラグランハ駅を通過する特急列車
こちらからお借りしました
幹線の勾配区間とは言え10km弱の間に3か所も駅があるのはさすがに過剰なのですが、ラ・シルヴァ信号場は現在は廃止されている近くの炭坑とを結ぶ軽便鉄道の発着駅だったところだそうです。またアルバレス信号場は開業当初から客扱いをしていません。

ここは現在でも西部ガリシア州と首都マドリードを結ぶ幹線となっており、毎日3往復~5往復の特急列車、2往復のローカル列車、2往復の夜行特急が走っています。

もともと幹線規格の線路をかなり高速で列車が行きかう様子はなかなか迫力があります。一応160km対応らしいですが、動画で見る限りそこまでスピード出ていません。

また、他のヨーロッパ諸国のローカル線同様、ここもローカル列車が思い切り減便されています。



実は現在マドリードからポルトガルとの国境沿いを通って沿岸部を結ぶ標準軌の高速鉄道線が建設中で、そちらが開通すると一気に立場が危うくなる可能性があるので要注意な区間ではあります。




次回は中国のループ線をご紹介します。

2018/01/07

欧州㉓ロシア・北コーカサス鉄道トゥアプセ線 欧亜をまたぐステルスループ線

  • 南を目指すのがロシア人の本能

今回はヨーロッパとアジアの境目、黒海とカスピ海の間を走る北コーカサス鉄道のループ線をご紹介します。

黒海から内陸に直角に曲がっているところがトゥアプセ
ループ線は128という数字の書いてあるあたりにあります
この地図にはまだクラスノダール支線は描かれていません
黒海とカスピ海の間には標高5000mを超えるコーカサス山脈がそびえています。この山脈がヨーロッパとアジアの境目になっており、この山脈よりも北側がヨーロッパ、南側は中央アジアです。

ちょうど4年前、冬季オリンピックが開催されたソチは黒海沿岸にあるロシア共和国の最南部の街ですが、コーカサス山脈よりも南側に位置しているので地理学上はアジアに分類されます。

ソチから黒海沿岸を走っているのが北コーカサス鉄道で、北上するとトゥアプセという町にたどり着きます。最高部で標高5000mを超えるコーカサス山脈もトゥアプセ近辺まで来ると山並みはずっと穏やかになっています。北コーカサス鉄道は標高わずか300mのシャウミヤン峠を越えて内陸に向かい、最終的にはモスクワまでつながっています。この峠越の部分にロシア製のループ線があることはあまり知られていません。

このシャウミヤン峠は高さは大したことありませんが、れっきとしたコーカサス山脈の末端部分でもあります。従ってこのループ線はアジアとヨーロッパをまたいでいることになります。ループ線の南側は黒海水域でアジアに属し、北側はアゾフ海に河口のあるクバン川流域でヨーロッパです。

この北コーカサス鉄道は帝政ロシア時代から旧ソ連時代にかけて怒涛の勢いで建設されて行った鉄道の一部です。ジョージア(旧グルジア)やアゼルバイジャンまでくまなく路線網があり、イランやトルコとも線路が繋がっていたこともあったようです。考えてみたら1991年までは全部旧ソ連領で同じ国内だったんですね。

  • 世界大戦よりも内戦の影響が大きい
帝政ロシア末期の鉄道路線図
さて、このループ線は1912年にトゥアプセ鉄道という民間会社の私営鉄道として開通しました。ぎりぎり帝政ロシアの時代です。

ロシア人が南を目指すのは本能のようなもので、この時代の鉄道建設もすごい勢いでした。1918年のロシア革命でソビエト連邦が成立し、鉄道に限らずすべての民間企業は国有化されました。

トゥアプセ鉄道はモスクワからの鉄道との連絡駅アルマヴィルを越えてスタヴロポリまで線路が続いていましたが、共産革命後の内戦で破壊されてしまい、アルマヴィルよりも東の区間は復旧されずそのまま廃止になっています。

現在はロシア政府100%出資のロシア鉄道北コーカサス支社が運営しています。当ブログでは北コーカサス鉄道と書きましたが、実際はロシア国鉄の一部となっています。

  • さすがロシア製。抜群のステルス性能だ
さて、このループ線は尾根筋を使って高度を稼ぐ形式になっており、3つのトンネルでループ線を構成しています。

トンネルは、下から順にボリショイ・ペトレボイ(大ループ)トンネル、マーリュイ・ペトレボイ(小ループ)トンネル、スレドニー・ペトレボイ(中ループ)トンネルと名前が付いています。

トンネルと木々で視界が効かず、さらにループ線の輪の中央部には山の尾根があって、ループ線を走っていることにとても気が付きにくい構造になっています。

上流のアルマヴィル側からトゥアプセに向かって走って来ると、常に左側が谷になっているので、普通に車窓を眺めているとループ線を通ったことに気が付かないことが多いのではないかと思います。

さらに、勾配12.5‰、曲線半径350m、輪の周囲約3kmとかなり高規格で作られてあって山越えの難所感が少ないことや、自線との交差点がボリショイ・ペトレボイ・トンネルの中にあることも加わって、意図的ではないかと思うほどループ線の存在感を消しています。

欧亜をまたがるという壮大な立地にありますが、ループ線としては非常に地味で目立たないもので、マニアでないと気が付かない極めてステルスなループ線と言えるでしょう。

ループ線全景の写真はいいのが見つかりませんでした
これはインジュク駅付近(上の地図の7番の赤丸あたり)の貨物列車
こちらからお借りしました

また、軌間はロシアン・ブロードゲージの1520mmゲージとなっています。広軌のループ線は世界でも珍しく、パキスタンのカイバル峠スリランカのデモダーラ、スペイン2ヶ所とここの5カ所にしかありません。

中国の興安嶺ループも開通時は、ロシアンブロードゲージでしたが、満鉄に移管された時に標準軌に改軌されています。

アルマヴィル方面のゴイトフ駅からインジュク駅までトゥアプセに向かってループ線を下る前面展望動画です。
6:50からループ開始、8:15からスレドニー・ペトレボイ・トンネル、最後ボリショイ・ペトレボイ・トンネルを抜けるとすぐインジュク駅です。
なお、この区間1990年代まで蒸気機関車が走っていたそうです

  • 盛り盛りの時刻表を読み解くと・・・
ループ線としては地味極まりない北コーカサス鉄道のループ線ですが、ロシアの南端部と中心部を結ぶ大動脈となっており、旅客列車も貨物列車もばんばん走っています。

時刻表には急行列車だけで1日16往復も記載されていますが、さすがにこれは盛った数字で、同じ日に全列車が運転されることはありません。ほとんどの列車が隔日運転もしくは週2回の運転なので、1日あたりでは多い日でも6~7往復程度です。貨物列車が1日40往復とか書いてある資料がありましたが、これも盛り盛りの数字でしょうね。

トゥアプセ以南は黒海沿岸の素晴らしいコーストラインを走ります
こちらからお借りしました

急行列車は主にジョージアとの国境の駅アドレルからソチを通って、ロシア内陸部のノヴォシビルスクやモスクワ方面に3日間かけて走る豪華長距離列車です。

その他に平日だけ運転される都市近郊列車が2~3往復あります。また夏のシーズン中はこれに臨時列車が加わるそうです。

ところで、ループ線の手前で分岐して左上へ向かう路線が地図で見えると思います。

この路線は、トゥアプセと中心工業都市クラスノダールを結ぶ短絡線で、1978年に建設されました。こちらの方が現在は本線ぽくなっており、旅客列車は1日最大で23往復運転されています。例によって盛ってある数字ですので普段は15往復程度でしょうか。この中にはアドレルから国境を越えてジョージアのスフミまで行く国際列車もあります。

このクラスノダール短絡線はループ線のすぐ下を通っており、ループ線通過中の車窓から見ることができるそうです。ちょうど鳩原ループから小浜線が見えるような感じでしょうか。上のYouTubeの動画の9:00あたりで並走しているはずですが、動画ではちょっと判別できません。




いつもループ線マニアをご覧いただきありがとうございます。

遅ればせながら今年も当ブログをよろしくお願いいたします。

次回はブロードゲージ・ループ線の残る二つのうちの一つ、スペインのループ線をご紹介いたします。