2016/11/30

欧州⑲イタリア・ノルチャ線 伝説のイタリアのゴッタルド

  • 伝説の大規模ループ線

今回はイタリア中部、ローマの東北にあったスポレト・ノルチャ線の連続ループ線をご紹介します。

このループ線は世界的に見ても相当大規模なものでした。現存していれば間違いなく「大規模ループ線」のカテゴリに入れていました。

スポレト・ノルチャ線はローマの東北、ウンブリア州のスポレトからイタリア半島の中央にそびえるアペニン山脈の中腹の町ノルチャを結んでいた全長50kmのイタリアンナローゲージの民有鉄道でした。第一次世界大戦後の1926年に開通し、1968年に廃止されています。ちょうど戦間のイタリア好況期に開通し、モータリゼーションの進展とともに廃止された典型的なイタリアの地方鉄道でした。


もともとこの鉄道はアペニン山脈を越えたアドリア海側の町、アスコリピチェーノとを結ぶことを念頭に置いていたようです。ところがアペニン山脈の地形は想像以上に険しく、当初検討していたリエーティ~アントロドーコ~グリシャノ~アスコリピチェーノ間の路線を断念し、スポレト~ノルチャ~グリシャノ~アスコリピチェーノのルートで着工しました。

完成後はサブアルプス鉄道株式会社というスイス・イタリア間に路線を持つ民間会社が、ぽつんと離れ小島的に所有・運営していました。何とも不思議な運営形態の民間鉄道です。スイスのレッチュブルグ線の建設を担当したスイス人技師アーウィン・トーマンErwin Thomanという人が建設した関係でしょうか。

結局第二次大戦の敗戦により、アペニン山脈横断の夢は果たされないまま、分不相応な大規模な構造物を持つローカル盲腸線として戦後を走ることになります。


  • 古今東西廃線跡の再利用と言えば

 ところがスポレートは人口2万、ノルチャは人口5千人の小さな町です。山中の小村に向かう人々ではどう考えても鉄道を経営していくには需要不足でした。

1965年にサブアルプス鉄道株式会社は民間運営を諦め、スポレート運輸企業協会という半官半民のよく分からない協会に運営を譲渡しますが、あっさり3年で廃線となってしまいました。

しかし、廃線直後から「ウンブリア地方のゴッダルド」とも呼ばれたその雄大な車窓風景を惜しむ声が上がり、観光鉄道として存続を模索する話が出ます。

とりあえず自転車道として保存されましたが、これが予想外の人気となり、イタリアで有名なMTBコースとして知られるようになります。

今ではMTBの大会なども開かれています。そのおかげでノルチャ駅付近の自動車道路に転用された部分以外では構造物はほぼ完ぺきな形で残されています。

また、ループ線部分を含む20㎞程度を観光鉄道として再生する計画もたびたび出ていますが、今度はMTB愛好家から観光鉄道化反対の声が上がるというなかなかカオスな状態になったりもしています。


  • 帝王にも負けないインパクト


カプラレッチァ陸橋と大掘割
さて、ノルチャ線のループ線は、カプラレッチァ・トンネルを挟んで峠の西側に1つ、東側に2つループがある双子ループでした。

第1のループは、峠の西、スポレト側の標高550mの丘陵地帯にあるカプラレッチァ陸橋で自線をまたぐフルオープンループです。

尾根筋を使って高さを稼いでいるため、少し変わった形状をしていました。

このループ部分の約半分は大規模な掘割になっており、さすがにこの部分は崩落の危険が大きいとして現在通行止めになっています。


ここで80mほど高さを稼いで標高約630mにあるイタリア狭軌線最長だった1936mのカプラレッチァ・トンネルに入っていました。

トンネルの東側は断崖絶壁で、標高350mのネラ川沿いまで高低差280mを7㎞で駆け下りていました。ロングダートでダウンヒル、適度なカーブがあってトンネルと眺めの良い橋がある、とまさにMTBに打ってつけですね。

この東側の断崖がウンブリア・ゴッダルドと異名を取ったヘアピンターン5カ所のうち2カ所がループ線になっている大規模ループ区間です。曲線半径は最小80m、最急勾配は45‰と一般の粘着式鉄道としては限界に近いハードスペックでした。

確かに本家ゴッダルドバーンに一歩も引けを取らないド派手なループ線です。


  • ローカルゆえに廃止になり、ローカルゆえに愛される

ところがゴッタルドバーンに圧倒的に負けていたのが輸送力と輸送量でした。

冷静に見てみるとノリチャ線は極めて低規格で、開業時から電化されていたにも関わらず、スポレト・ノルチャ間の50㎞を2時間以上かかっていました。

需要が少なかったのはアペニン山脈を越えられなかったからだと書きましたが、本当に横断する気があったのか疑問が残ります。

少なくとも幹線鉄道としてイタリア東西横断を目指したものでなかったことは、ナローゲージである点や曲線半径・勾配などの線路規格を見る限り間違いなさそうです。

仮に山脈を越えて東西横断が実現していたとしても、このスペックではいずれモータリゼーションの波に飲まれていたのではないかと思います。その点では開業時から21世紀水準の高規格だったゴッダルド・バーンの足元にも及ばないでしょう。

とは言え、イタリアの美しい山並みを行く超大規模ループ線は記録よりも記憶に残る鉄道として、その痕跡は今でも人々に愛されています。私の最も行ってみたい廃線ループ区間の一つです。

なお、このノルチャ線沿線は昔から地震の多い地域で、つい先日2016年11月にも大きな地震があったそうです。ノルチャ線跡には調べた限り被害はなさそうですが、何かわかったらここに追記して行きたいと思います。




次回はこれまでにも話に出てきたレッチュベルグ線のループ線をご紹介します。






2016/11/22

中国⑨牡図線 見た目そっくりの連続ループ線

  • 在りし日の日満連絡北鮮ルート
今回は連続ループ線シリーズより中国東北部、牡図線の2つのループ線をご紹介します。

牡図線は中朝国境沿いの町、図們(トゥメン)~牡丹江(ムーダンジァン)間を中露国境の少し西側に南北に結ぶ路線で、1935年の開通です。開通時期から想像できるとおり、満州国鉄の建設した旧日本製の路線です。

所属は満州国鉄ですが、鉄道の運営は満鉄(南満州鉄道)が自社路線と一体的に運営していました。満鉄の自社路線は社線、満州国鉄線は国線と区分されていましたが、国線も建設・運営・保守を一括して満鉄に委託しており、満州国鉄に鉄道運営の実態はまったくなく、書類上の区分だけだったそうです。

満州鉄道の路線図
図の右端満ソ国境から二本目の南北の路線が牡図線です
この図では図佳線と表記されています
こちらからお借りしました →南満州鉄道資料室
この路線も日満連絡のために作られた路線です。東京~新潟~北朝鮮・羅津(ラジン)または清津(チョジン)~中国・図們~牡丹江~ハルビンのいわゆる北鮮ルートは、以前からあった釜山ルートや大連ルートよりも海上区間の距離が短かく、鉄道整備が進めば最短時間での日満連絡ルートになると期待されていました。

実際は大陸側の旅客列車が少なかったため終戦まで旅客ルートとしては釜山経由や大連経由よりもメジャーになることはありませんでした。一方貨物輸送では北朝鮮や満州の豊富な森林資源や鉱物資源輸送に活躍し、対ソ連国境線への軍用路線としても重要な役割を果たしました。

牡図線の建設は日本のゼネコン鹿島建設が請け負いましたが、当時の満州は匪賊が跋扈するまさに未開の大地、鉄道の建設よりも匪賊対策にお金がかかるという想像を絶する建設現場でした。トンネルを掘ってたら襲われて金目のものは根こそぎ取られ、最悪落命することもあったと言うから怖すぎです。

先達の苦労を偲ぶとともに、結果的には敗戦によって大陸から撤退することになったことを考えるとちょっと切なくなります。建設時の様子はこちらに詳しいです →鹿島建設HP「満州での工事と満州鹿島組」。文中に出てくる図寧線とは、工事区間が図們から牡丹江の少し南の寧安という町までだったことから付けられた牡図線の別称でしょう。中国語で検索してもヒットしてきませんので日本人だけが使った名称なのかもしれません。

なお、牡図線は牡丹江からさらに北に向かって建設が続き、1937年に佳木斯(ジャムス)まで延伸されました。図們から佳木斯までまとめて図佳線とも言います。現在では牡丹江を境に南北に運転系統が分断されていますが、どちらの名前も同じぐらい使われていて、どちらが正式かはよくわかりませんでした。

  • 少しの違いが大きな知名度の差に
さて、牡図線には図們から約40㎞の新興と約130㎞の老松嶺の2カ所にループ線があります。日本から見て手前の南側が新興ループ、奥の北側が老松嶺ループです。一見峠を挟む双子ループかと思いきや、実はどちらも牡丹江に向かって上り坂です。

老松嶺ループの北にある老松嶺トンネルが分水嶺になっており、トンネルの手前南側は図們江の水域、北側は1000㎞も北に河口があるアムール川水域です。

分水嶺はそれほど険しい山脈ではありませんが、河口までの距離の差がそのまま標高差になっており、峠の両側で200mほどの高低差があります。

地図で見ると二つのループ線は面白いぐらい形がそっくりなのですが、よく見ると老松嶺ループの方が輪の部分が少し大きいことが分かります。新興ループも老松嶺ループも曲線半径360m高低差約40mと同じスペックですが、老松嶺ループは直線を挟んで輪の部分を伸ばして勾配を緩和している様子が伺えます。

SL撮影で一世を風靡した新興ループ
羊肉様のサイト「中国大陸の蒸気機関車」からお借りしました
→こちら 
こちらのページによると、新興ループは16‰勾配、老松嶺ループは11.5‰勾配とのことです。

ここは1990年代の後半まで蒸気機関車が現役で走っており、南側の新興ループには日本から遠征して撮影に行かれた方も多かったようです。素晴らしい写真がWEB上で見つかります。ところが、なぜか老松嶺ループの方は写真がまるで見当たりません。

丘の上で見晴らしのよい新興ループに対して、林の中で見通しが効かず、駅からのアクセスも悪い老松嶺ループは、蒸気機関車の撮影に向かなかったのでしょうか。見た目がそっくりにもかかわらず、知名度的には随分な差がついているようです。

  • 旅客列車の運転状況は混乱中
現在、この二つのループ線には長春~牡丹江間の直通夜行急行と線内運転の普通列車がそれぞれ1往復ずつ、計2往復4本の旅客列車が走っています。

牡図線の紅葉は中国一美しいと言われるそうです
残念ながら適当な写真が見当たらないので
図們~長春間の長図線の写真で代用
時刻表上は比較的乗りやすそうなのですが、実はどの列車にも少しずつ難点があります。直通急行は確実に運転されていますが、下り牡丹江行は図們発がめちゃくちゃ早朝、上り長春行はループ線通過が日没後となっており、どちらも悪条件です。

一方、線内運転の普通列車は上下ともいい時間帯にループ線を通過するのですが、ここ数年、途中駅で打ち切りになったり全区間運休したりで運転状況が極端に不安定です。

たくさんある中国の列車時刻サイトでもサイトによってヒットしたりしなかったりで、本当に走っているのかよく分かりません。近年、長春~図們間とハルビン~牡丹江間の高速鉄道の建設が同時に進んでおり、その工事の影響でしょうか。

高速鉄道が完成するとこの地域の列車ダイヤは激変することは確実ですが、完成するまでの間も不安定な運転状態が続きそうです。特に線内普通列車の方を狙って乗車するならば、日程に余裕を持って行く方がよさそうです。






  • おまけ ~新興ループと廃線跡
 Googleの衛星写真で新興ループを見ていて、ループ線の麓にある廃線跡っぽい築堤(上記の衛星写真の中の青色の線)が気になっていたのですが、調べてみるとこれは旧満州国鉄興城線(興寧線)の跡でした。 1940年の開通で、牡図線よりもさらに東寄りの国境沿いを北上して、満露国境の町、東寧までの間を結んでいたものです。路線延長は210kmもある幹線級の路線だったそうです。終戦後はソ連によって一部は解体撤去され、残った部分も続く国共内戦で破壊されてしまったわずか5年の短命路線でした。参考資料はこちら

1970年代にナローゲージの森林鉄道として復旧した部分もありましたが、線路跡の大部分は道路に転用されています。

満州国が熱心にすすめた鉄道建設の残影を垣間見ることができます。



まだ中国には連続ループ線がありますが、一旦中国を離れて次回はイタリアの連続ループ線を見てみることにしたいと思います。

ここまで月3本のペースで記事を上げてきたのですが、今月は多忙だったためについに1本落としてしまいそうです。ぼちぼち頑張って書いていきたいと思います。