2016/05/28

欧州⑦イギリス・ウェールズ フェスティニオグ鉄道 リアルきかんしゃトーマスの世界

  • 産業革命の原動力
今回はイギリス・ウェールズにあるフェスティニオグ鉄道Ffestiniog Railwayのループ線をご紹介します。

グレートブリテン島は今さら説明するものでもないでしょうが、南北約1000km弱、東西200km~400kmと面積的には本州より少し小さい島です。イギリスはグレートブリテン島にあるイングランド・スコットランド・ウェールズとアイルランド島にある北アイルランドの4つの国の連合王国ですが、今回のループ線は島の西側ウェールズにあります。


ウェールズの北部の山地と丘陵地帯は石炭と石灰石がよく採れて、イギリス産業革命の原動力となりました。ここでは採れる石炭は良質な無煙炭で、それを使った製鉄業がイギリスの工業化を引っ張っていくことになります。

石炭の輸送手段として蒸気機関車が開発され、鉄道網を広げるためにさらに鉄が必要になり、鉄を作るためにまた石炭が必要になるという循環作用を生み、19世紀中盤に鉄道狂時代と呼ばれる鉄道建設バブルが到来します。イギリスでは1840年代に急速に路線網が拡大し、1850年までに総延長1万㎞、1880年には総延長3万kmとなっています。日本の国鉄の総延長が1980年代のピーク時で本州以外の路線を含めて2万2千kmだったことを考えると、これはとんでもない線路密度だと言えます。

  • 廃止されてからが本番
さて、フェスティニオグ鉄道は1836年に開通したウェールズの最高峰スノードン山の麓を走る炭鉱鉄道を起源とする路線です。鉄道黎明期で規格が固まっていなかったのか597mmゲージという実に半端なゲージです。この他にもイギリスには603mmゲージとか610mmゲージといった半端なゲージの路線が現存しています。

古い路線がたくさんあるイギリスの鉄道の中でも相当古く、フェスティニオグ鉄道は現存する鉄道会社としては世界最古です。ただし、開業当初は山の上にあるブライナイ・フェスティニオグ Bleanau Ffestiniogからポースマドッグ・ハーバーまで重力で坂を下り、登りは馬が引いて上るというトロッコ馬車軌道でした。これで旅客営業もやっていたというから驚きです。現代的視点からだとちょっと怖いですね。


1860年代に入ると蒸気機関車が導入されて現代的な鉄道営業となりましたが、その後石炭需要が低下して、1946年に一旦廃線となりました。

しかし、ここからがフェスティニオグ鉄道の歴史の本番のようなものでした。

1951年には早くも復活運転に向けて運動が始まり、1955年にまず海側の終点ポースマードック・ハーバーとボストンロッジの一駅間で運転が再開されます。復活に向けての工事はほとんどボランティアの手によるものだったそうです。

その後一駅ずつ復活区間が伸びていき、1968年にはループ線の手前のDdaullt駅まで復活しました。ついデュオルト駅と読みたくなりますが、ウェールズ語読みでジアスト駅と発音するのが正しいようです。まったく初見殺しの駅名です。

  • 違和感があればあなたもループ線マニア
歴史は一旦おいておいて、ループ線の線形を見てみましょう。のどかな丘をまたぐ丘陵型のオープンループです。

が、線形に何か違和感を感じないでしょうか?よく見るとループ線といいながら線路が丸くなっていません。北西に向かって進む線路を無理に捻じ曲げたようになっています。

実は現役時代のフェスティニオグ鉄道は、ジアスト駅を出てループせずにそのまま北西に直進し、正面の山を800m近いトンネルで抜けていました。ところが 廃止されていた1950年代にダムと水力発電所が計画され、ジアストと隣のタナグリサイ駅との間の線路が水没することになってしまいました。

点線が旧線です

ジアスト駅周辺。旧線時代はそのまま直進していました。よく見ると実に
変わった形状のループ線です。

普通なら廃止された鉄道の復活など諦めてしまうところですが、ここの人々は違いました。中央電力庁相手に裁判を起こし、18年もかかってその裁判に勝利します。判決に基づいて用地補償を受け、1978年に付け替えた新線で復活しました。ジアスト駅のループ線はこの時にできたものです。

世界最古のループ線かと思いきや、実はむしろループ線としては新しい部類のものだったんですね。このループ線も、付け替え線上の新トンネルもボランティアが作ったそうです。用地は補償してもらえましたが、工事までは補償してもらえなかったんですね。

こうして1986年、ブライナイ・フェスティニオグ Bleanau Ffestiniogまでの全線が再開しました。最初に廃止されてから全線再開まで実に40年の歳月が経っていました。

  • トーマスの世界を味わえる
さて、そんなフェスティニオグ鉄道ですが、現在はウェールズ観光の目玉として熱心に運転されています。3月~10月は少ない日で1日2往復、多い日で6往復~7往復の列車が走っています(11月~2月は運休日あり)。すべて実写版きかんしゃトーマスという風情のSL列車です。


下手なローカル線よりも本数があるのですが、なぜか土日よりも火水木曜日の方が運転本数が多いという謎の運転スケジュールになっているので実際に行かれる際は要注意です。

運賃は1日乗車券が22.8£≒約3700円、片道券が約1500円、一等車は片道1100円増しとなっています。時刻表はこちら。乗車時間は片道約1時間10分です。

また、起点のポースマードックではスノードン山に向かうウェールズ・ハイランド鉄道と連絡しています。このウェールズ・ハイランド鉄道も長い工事の末に復活した597mmゲージの保存鉄道です。

こちらは1937年廃止、2011年全線運転再開とフェスティニオグ鉄道をしのぐ歳月を経ての全線再開です。ウェールズの人々の鉄道復活にかける情熱には頭が下がります。

日本では地価や法規制の関係でなかなかこういう鉄道保存活動は具体化しませんね。そもそも何十年もこつこつと復活に向けて運動を続けることが難しいのでしょうか。



次回はアフリカ大陸の横にあるマダガスカル島のループ線をご紹介します。

2016/05/19

アジア⑤樺太豊真線宝台ループ 北の大地に眠るメイド・イン・ジャパン

  • サハリンの灯は消えず

今回は樺太の豊真線宝台ループをご紹介します。

海外のループ線に興味を持たれた方は、だいたい一度は目にしていると思われる有名なループ線です。

北緯50度線以北の鉄道はすべて
戦後の開通です
樺太=サハリン島は南北約1000㎞の細長い島です。南北の長さは本州の半分ぐらいありますが、東西の幅が最も広いところでも160㎞しかないため、面積は北海道よりも小さいです。西海岸(大陸側)の南部は暖流の影響で比較的暖かいのですが、北部と島の東側はオホーツク海の影響で極寒です。

ところが、島の中央部を南北に走る1300mクラスの樺太山脈が強風を遮断しているおかげで、島の南部を中心に森林が発達しています。これがほぼ同じ緯度にあるにもかかわらず強風で森林ができなかったニューファンドランド島との大きな違いです。

樺太の南半分は日露戦争後の1905年から第二次世界大戦の終わる1945年まで日本領だったのは日本史で習ったとおりですが、その時代の主要な産業は漁業と石炭採掘、そして豊富な森林資源をもとにした製紙業でした。人口は1900年代初頭は3万人程度だったのが、終戦直前には南樺太だけで40万人となっています。

ある程度の人口密度と陸上産業をベースにした貨物需要、そして忘れてはならないのが国境を背負っているという軍需、この3つによって樺太の鉄道輸送は順調に成長していきます。1910年に樺太東線、1920年に樺太西線と東西の両幹線がそれぞれ開通しています。

いちいち比較するのも申し訳なくなりますが、漁業一本やりだったニューファンドランド島とは経済環境がかなり異なりますね。当然ですが、漁業は水運中心ですので鉄道輸送の出る幕はあまりありません。

  • 日本人の琴線に触れるもの

樺太東線の起点で当時稚内からの玄関口になっていた大泊(現コルサコフ)港は冬季は氷結するため、西海岸の不凍港真岡港(現ホルムスク)との間を鉄道で連絡する必要が早くから論じられていました。

しかし、樺太山脈を越えるのに思いのほか手こずり、この区間が開通したのは1928年のことでした。これが豊原(現ユジノサハリンスク)と真岡(現ホルムスク)を結ぶ豊真線です。上越線の湯檜曽松川ループ(1931年開通)よりも実は早い開通だった点は注目です。

樺太山脈を越えるルート選定については山下さんのブログでも詳しく取り上げられています。→こちら。勾配は22‰、高低差はループ線部分だけで40mです。ループ線自体はシンプルな形状ですが、自線との交差箇所が鉄橋になっているのが特徴です。この鉄橋にはロシア語で「悪魔の橋」というニックネームがついています。

現在日本国内に現存しているループ線はすべて自線の交差箇所はトンネル内です。やはり日本製であることに対して郷愁にかられるのでしょうか、古い時代のものから最近のものまでネット上で豊富に写真が見つかります。

こちらからお借りしました
これもあちこちで取り上げられていてご存知の方も多いと思いますが、ソ連領となった後も使われていた宝台ループですが、1990年代に老朽化が進み、残念ながらトンネル崩落で廃止されてしまっています。

豊真線の両端部分(真岡ー池之端間と豊原ー奥鈴屋間)は細々と残る通勤需要のために今でも旅客列車が走っているそうですが、中間部分は人家も少なく、道路も整備され、東西樺太連絡は1970年代にソ連によって開通した新線(久春内ー真縫間。現イリンスクーアルセンチェフカ間)に移行したとあっては存続を望む方が無理というものでしょう。

2010年の撮影だそうです
ただ、衛星写真で見るとほぼ全線にわたってまだ路盤が残っており、やる気と金さえあれば再び列車を走らせることはできそうではあります。

樺太では現在改軌工事が進行中で、2016年中にも樺太全土がロシア本土と同じ1520mmゲージになるそうです。

ここも観光鉄道として復活すれば日本からの旅行者が大量に行くと思うのですが、どうでしょうか。









  • おまけ~架鉄を極めると・・・
ループ線と直接関係ありませんが、「もし樺太が今でも日本領だったら」という想定を前提にした架空鉄道サイト「樺太旅客鉄道株式会社」さんはすごすぎて痺れます。ここまで突き抜けた架空鉄道はなかなかお目にかかれません。

地形図まで作ってあって、その完成度には戦慄します。一瞬本物かと思ってしまいますよね。どうやって作ったのでしょうか。いやはや恐れ入ります。 是非一度驚愕のパラレルワールドをご覧ください。

また樺太の鉄道史についてはこちらのサイトが詳しいです。



次回は鉄道の本場イギリスのループ線をご紹介します。

2016/05/14

北米②カナダ・ニューファンドランド島 池のまわりの廃止ループ線

  • 独立国のプライド

今回はカナダの東の端、ニューファンドランド島のループ線をご紹介します。

ニューファンドランド島は大西洋に面した東西約450km、南北約560kmの北海道よりも一回り大きい島です。日本の一般的な世界地図では右端にちょろっと描かれていて、北米大陸にまぎれて相対的に小さく感じますが、実は北海道の1.3倍もあるかなり大きな島です。高い山がないため強い海風が吹き、沖合を流れる寒流の影響で冬は厳寒、夏は濃霧という住むには厳しい気候です。

そんなニューファンドランド島ですが、沿海に世界有数の漁場があったため、古くからヨーロッパ人の入植が進みました。島で一番大きなセントジョンズの町がカナダ側ではなく、大西洋側にあるのはその名残です。

18世紀までの間はイギリスとフランスで領土争奪戦が繰り広げられましたが、1713年に最終的にイギリス領に落ち着きました。

時代は進んで20世紀に入ると、カナダが自治領としてイギリスから独立する際にニューファンドランドを併合しようとする動きがありました。

ニューファンドランドは住民投票の結果これを拒否して、独自の自治領となる道を選び、カナダとは別の独立国を目指したのでした。

こうしてニューファンドランドは1907年に自治領(ドミニオン)となり、カナダ、オーストリラリアに続いて実質的に独立を果たします。

  • 鉄路は死なず、ただ去りゆくのみ 

鉄道も標準軌のカナダ本土とは異なる1067mmゲージで建設が進み、1898年には島内を縦断する鉄道が完成しています。島の西端カナダ本土側のポート・オ・バスクからセントジョンズまでの本線は890kmもの長さになる長大路線でした。

ところが、あらゆるところで独自路線を突き進んだニューファンドランド島ですが、当時人口は30万人弱と独立国になるには少し人口規模が足りなかったようです。鉄道建設も資金的に相当無理をしたようで、開通当初から財政負担に苦しみます。「国の財政を良くするために作った鉄道が財政を苦しめている」と言われたりしました。

廃止直前のトリニティ湾を行く混合列車
さらに追い打ちをかけたのが第一次世界大戦でした。ニューファンドランド島はイギリス側で派兵しましたが、若年人口の4分の1が戦死してしまいます。

大戦後の大恐慌を乗り越えられず、1934年、ついに実質的な独立国の地位を返上して、イギリス領の植民地に戻ることとなってしまいました。

第二次大戦後の1949年にカナダに併合されて、ニューファンドランド州となって現在に至ります。住民投票ではカナダ併合賛成50.5対反対49.5の僅差だったそうです。

このような経緯でカナダ本土とは異なる気風が残るニューファンドランド島ですが、島内の鉄道路線はカナダ併合以降はカナダ国鉄CNRが運営していました。人口は少し増えて40万人程度になりましたが、やはり支線を含めて1000kmの鉄道路線網を維持するにはまだ少なかったようです。赤字に耐え切れず1988年に島内の鉄道路線は全線廃止されました。

  • 鉄道の歴史に留められるべきと思う
さて、ループ線ですが、島の南部のショールハーバーから北に分岐するボナヴィスタ支線のトリニティ湾の近くにありました。

ボナヴィスタ支線トリニティループとトリニティ湾
点線部分は遊園地時代に増設した短絡線

ニューファンドランド島は高い山がないおおよそ平らな島ですが、島の中央部は標高数百m程度の台地になっています。この台地と海岸沿いの境目にあったのがトリニティループです。

その名もループ池(Loop Pond)という池の周りをぐるりと回る、前代未聞、空前絶後の形状のループ線でした。世界中のループ線の中で「池の周りをループ」するループ線はここにしかありません。

しかも写真を見ると交差部の高低差はどう見ても20mもありません。池の一周は2kmぐらいなので勾配は10‰あるかないかです。

他にいくらでもループ線を使わないで海岸に至るルートが選定できたと思いますが、建設費の関係からトンネルを掘るのを意地でも避けたかったのでしょう。ニューファンドランド島内には鉄道トンネルが一つもなかったそうです。

超貴重な現役時代のトリニティループ
交差部の高低差は10m程度です。こちらからお借りしました

ボナヴィスタ支線は、1911年に開業し本線よりも先に1984年に廃止されています。廃止後しばらくの間はループ線跡を含めた池のほとりが、トリニィティループ鉄道村 Trinity Loop Railway Villageという遊園地っぽい公園になっていました。

旧ループ線上をディーゼル機関車牽引の客車で走れるアトラクションもあったのですが、それも2010年のハリケーンによる土砂崩れにあって今は廃園になっています。(You Tubeに激レアな公園時代のループ線の動画がありました。→こちら

このトリニティループはかえすがえすも惜しいです。形状といい立地といい景色といい、世界中のループ線の中でも抜群の異彩を放っていました。ボナヴィスタ支線全体的に言えますが、現役時代の写真もあまり残っておらず、話題にならずにひっそりと消えて行った感じです。


遊園地時代はそれなりに賑わっていたようですが、土砂崩れ以降は放置されています。今も交差部の鉄橋がかろうじて残っていて往時を偲べるのですが、観光列車としてでも再開できないものでしょうかね。それだけの価値はあるとは思います。

なお、島内には昔の駅跡を鉄道記念館のようにしているところが何か所かあり、機関車などが保存されているそうです。また、本線跡の全長890㎞ほぼ全部がNew Foundland T'Railwayというサイクリングロードになっています。






次回は島にあるループ線の中で廃止されたものから、一部で有名な樺太の宝台ループをご紹介します。