2018/02/15

欧州㉔スペイン ア・コルーニャ線ラ・グランハ・スパイラル 異色の巨大スパイラル

  • 情熱の大輪ループ線
今回はスペイン北西部、ポルトガルとの国境付近にある異色のループ線をご紹介します。

ピレネー山脈よりも南のイベリア半島はいわゆるヨーロッパとは気候も雰囲気も大きく異なります。歴史上イスラム教の影響下にもあったこともあります。

1910年ごろのスペインの鉄道路線図
ループ線は図中央のレオンから海沿いのアコルーニャに向かうオレンジ色の線上にあります
図中の黒い線はメーターゲージの路線です。
スペインの国土は海岸部は断崖で内陸部は標高500m~1000mの台地となっています。従って海岸部から内陸に向かう際には必ず山を登る必要がありました。フライパンを裏返したような地形と言えばだいたい合っていると思います。

さて、一時期は世界征服も夢ではなかったスペイン帝国ですが、17世紀に入るとイギリスに海上での争いで負けて没落してしまいきます。18世紀には王朝が途絶えたり、ナポレオンのフランスに占領されたり、アメリカと戦争してぼこぼこにされたり、まさに踏んだり蹴ったりの100年間を経験します。

鉄道もヨーロッパ諸国が1848年にバルセロナで開通したのが最初で、他のヨーロッパ諸国と比べると10年~20年程度遅れていました。

それでも1850年代には鉄道投資熱の高まりに乗って各地に鉄道が建設されており、急速に路線網拡大していっています。

そんな中でどうしても海岸沿いに出るところで急勾配になる地形的制約に苦しめられることになります。イベリアゲージと言われる1668mmのブロードゲージは山間部の路線建設にひどく難航し、標準軌を採用しなかったことを当時のスペインの鉄道技術者は随分後悔したそうです。スペインでは海岸沿いを中心に1000mmのナローゲージ路線が残っているのは山間部のブロードゲージ路線建設を諦めてナローゲージ路線を敷設した名残です。

このア・コルーニャ線も内陸側からはブラニュエラスまでが1868年に、海岸側からはルーゴまでが1875年に開通していましたが、ループ線を含む部分の開通は1883年のことになります。この間、列車はブラニュエラス止まりで「coachでルーゴまでの約50kmを連絡していた」そうです。ここでいうcoachはバスではなく文字通り馬車だろうと思います。ヨーロッパではゴッタルドバーンに次ぐトップクラスの歴史の古いループ線でもあります。

もともと海洋国家だったスペインは海岸沿いに有力都市が多くあり、王室のあったマドリードと海岸沿いを結ぶ路線はどこも重要路線だったと言えます。ア・コルーニャ線もそのような海岸沿いの有力都市と首都を結ぶ幹線と位置付けられています。

  • いまだ色あせない往年の世界一
さて、このループ線、最初からブロードゲージの幹線規格で作られていました。山の尾根をダイナミックに使った壮大なループ線です。

輪の大きさは一周5.8kmあり、1883年の開通から2004年に中国の水柏線の3重ループ線が開通するまで実に120年間、世界最大のタイトルを保持していました。曲線半径は最小280m、勾配は20‰、輪の大きさを目一杯使ってトータル220mの高低差を登ります。建設時期を考えるとかなりの高規格と言えるでしょう。



あまりにも輪が大きいのでループ線ぽい写真は撮りづらいようです
ループ線の向き(写真では右巻き)とは逆の左カーブである点も注目
あまりにも輪が大きかったので、ループ区間中にも直線がふんだんにあり、なかなかループしている感覚が掴みづらいという特徴があります。さらに、ループとは反対方向に曲がる逆向きの曲線まである点がマニア的には要チェックです。

この「ループ線の途中に、ループとは逆向きの曲線のあるループ線」というのはあまり他に思い当たりません。世界唯一とは断言しにくいのですが、かなり珍しいものだと思います。

レオン側から来ると台地の上のブラニュエラス駅を出て山の尾根沿いに進み、5km以上もあるループ区間を通り、トンネル・デル・ラソで自線の下をくぐります。ラソはスペイン語で輪の意味なので、英語に訳すとループトンネルというそのままの名前になります。

また、現在の世界の大輪ループ線を見てみると、1位の韓国のソラントンネルは全区間トンネル内、2位の中国水拍線も全体の3分の2がトンネル内ですが、このグランハ・スパイラルは交差部のトンネル・デル・ラソも含めて比較的短いトンネルばかりです。大きな谷を豪快に見下ろす長いループ線の車窓風景は抜群です。(ちなみに4位はブルガリアのシプカ峠のループ線、ここもあまり車窓には期待できません)

  • 将来不透明ながら、今のところは特急街道
この区間には駅が3か所ありました。ループの途中、山の中腹にあるのがラ・グランハ駅、トンネルエルラーゾのすぐ手前にあったのがラ・シルヴァ信号場、ループトンネルを抜けた後にあるアルバレス信号場です。

ラグランハ駅を通過する特急列車
こちらからお借りしました
幹線の勾配区間とは言え10km弱の間に3か所も駅があるのはさすがに過剰なのですが、ラ・シルヴァ信号場は現在は廃止されている近くの炭坑とを結ぶ軽便鉄道の発着駅だったところだそうです。またアルバレス信号場は開業当初から客扱いをしていません。

ここは現在でも西部ガリシア州と首都マドリードを結ぶ幹線となっており、毎日3往復~5往復の特急列車、2往復のローカル列車、2往復の夜行特急が走っています。

もともと幹線規格の線路をかなり高速で列車が行きかう様子はなかなか迫力があります。一応160km対応らしいですが、動画で見る限りそこまでスピード出ていません。

また、他のヨーロッパ諸国のローカル線同様、ここもローカル列車が思い切り減便されています。



実は現在マドリードからポルトガルとの国境沿いを通って沿岸部を結ぶ標準軌の高速鉄道線が建設中で、そちらが開通すると一気に立場が危うくなる可能性があるので要注意な区間ではあります。




次回は中国のループ線をご紹介します。

2018/01/07

欧州㉓ロシア・北コーカサス鉄道トゥアプセ線 欧亜をまたぐステルスループ線

  • 南を目指すのがロシア人の本能

今回はヨーロッパとアジアの境目、黒海とカスピ海の間を走る北コーカサス鉄道のループ線をご紹介します。

黒海から内陸に直角に曲がっているところがトゥアプセ
ループ線は128という数字の書いてあるあたりにあります
この地図にはまだクラスノダール支線は描かれていません
黒海とカスピ海の間には標高5000mを超えるコーカサス山脈がそびえています。この山脈がヨーロッパとアジアの境目になっており、この山脈よりも北側がヨーロッパ、南側は中央アジアです。

ちょうど4年前、冬季オリンピックが開催されたソチは黒海沿岸にあるロシア共和国の最南部の街ですが、コーカサス山脈よりも南側に位置しているので地理学上はアジアに分類されます。

ソチから黒海沿岸を走っているのが北コーカサス鉄道で、北上するとトゥアプセという町にたどり着きます。最高部で標高5000mを超えるコーカサス山脈もトゥアプセ近辺まで来ると山並みはずっと穏やかになっています。北コーカサス鉄道は標高わずか300mのシャウミヤン峠を越えて内陸に向かい、最終的にはモスクワまでつながっています。この峠越の部分にロシア製のループ線があることはあまり知られていません。

このシャウミヤン峠は高さは大したことありませんが、れっきとしたコーカサス山脈の末端部分でもあります。従ってこのループ線はアジアとヨーロッパをまたいでいることになります。ループ線の南側は黒海水域でアジアに属し、北側はアゾフ海に河口のあるクバン川流域でヨーロッパです。

この北コーカサス鉄道は帝政ロシア時代から旧ソ連時代にかけて怒涛の勢いで建設されて行った鉄道の一部です。ジョージア(旧グルジア)やアゼルバイジャンまでくまなく路線網があり、イランやトルコとも線路が繋がっていたこともあったようです。考えてみたら1991年までは全部旧ソ連領で同じ国内だったんですね。

  • 世界大戦よりも内戦の影響が大きい
帝政ロシア末期の鉄道路線図
さて、このループ線は1912年にトゥアプセ鉄道という民間会社の私営鉄道として開通しました。ぎりぎり帝政ロシアの時代です。

ロシア人が南を目指すのは本能のようなもので、この時代の鉄道建設もすごい勢いでした。1918年のロシア革命でソビエト連邦が成立し、鉄道に限らずすべての民間企業は国有化されました。

トゥアプセ鉄道はモスクワからの鉄道との連絡駅アルマヴィルを越えてスタヴロポリまで線路が続いていましたが、共産革命後の内戦で破壊されてしまい、アルマヴィルよりも東の区間は復旧されずそのまま廃止になっています。

現在はロシア政府100%出資のロシア鉄道北コーカサス支社が運営しています。当ブログでは北コーカサス鉄道と書きましたが、実際はロシア国鉄の一部となっています。

  • さすがロシア製。抜群のステルス性能だ
さて、このループ線は尾根筋を使って高度を稼ぐ形式になっており、3つのトンネルでループ線を構成しています。

トンネルは、下から順にボリショイ・ペトレボイ(大ループ)トンネル、マーリュイ・ペトレボイ(小ループ)トンネル、スレドニー・ペトレボイ(中ループ)トンネルと名前が付いています。

トンネルと木々で視界が効かず、さらにループ線の輪の中央部には山の尾根があって、ループ線を走っていることにとても気が付きにくい構造になっています。

上流のアルマヴィル側からトゥアプセに向かって走って来ると、常に左側が谷になっているので、普通に車窓を眺めているとループ線を通ったことに気が付かないことが多いのではないかと思います。

さらに、勾配12.5‰、曲線半径350m、輪の周囲約3kmとかなり高規格で作られてあって山越えの難所感が少ないことや、自線との交差点がボリショイ・ペトレボイ・トンネルの中にあることも加わって、意図的ではないかと思うほどループ線の存在感を消しています。

欧亜をまたがるという壮大な立地にありますが、ループ線としては非常に地味で目立たないもので、マニアでないと気が付かない極めてステルスなループ線と言えるでしょう。

ループ線全景の写真はいいのが見つかりませんでした
これはインジュク駅付近(上の地図の7番の赤丸あたり)の貨物列車
こちらからお借りしました

また、軌間はロシアン・ブロードゲージの1520mmゲージとなっています。広軌のループ線は世界でも珍しく、パキスタンのカイバル峠スリランカのデモダーラ、スペイン2ヶ所とここの5カ所にしかありません。

中国の興安嶺ループも開通時は、ロシアンブロードゲージでしたが、満鉄に移管された時に標準軌に改軌されています。

アルマヴィル方面のゴイトフ駅からインジュク駅までトゥアプセに向かってループ線を下る前面展望動画です。
6:50からループ開始、8:15からスレドニー・ペトレボイ・トンネル、最後ボリショイ・ペトレボイ・トンネルを抜けるとすぐインジュク駅です。
なお、この区間1990年代まで蒸気機関車が走っていたそうです

  • 盛り盛りの時刻表を読み解くと・・・
ループ線としては地味極まりない北コーカサス鉄道のループ線ですが、ロシアの南端部と中心部を結ぶ大動脈となっており、旅客列車も貨物列車もばんばん走っています。

時刻表には急行列車だけで1日16往復も記載されていますが、さすがにこれは盛った数字で、同じ日に全列車が運転されることはありません。ほとんどの列車が隔日運転もしくは週2回の運転なので、1日あたりでは多い日でも6~7往復程度です。貨物列車が1日40往復とか書いてある資料がありましたが、これも盛り盛りの数字でしょうね。

トゥアプセ以南は黒海沿岸の素晴らしいコーストラインを走ります
こちらからお借りしました

急行列車は主にジョージアとの国境の駅アドレルからソチを通って、ロシア内陸部のノヴォシビルスクやモスクワ方面に3日間かけて走る豪華長距離列車です。

その他に平日だけ運転される都市近郊列車が2~3往復あります。また夏のシーズン中はこれに臨時列車が加わるそうです。

ところで、ループ線の手前で分岐して左上へ向かう路線が地図で見えると思います。

この路線は、トゥアプセと中心工業都市クラスノダールを結ぶ短絡線で、1978年に建設されました。こちらの方が現在は本線ぽくなっており、旅客列車は1日最大で23往復運転されています。例によって盛ってある数字ですので普段は15往復程度でしょうか。この中にはアドレルから国境を越えてジョージアのスフミまで行く国際列車もあります。

このクラスノダール短絡線はループ線のすぐ下を通っており、ループ線通過中の車窓から見ることができるそうです。ちょうど鳩原ループから小浜線が見えるような感じでしょうか。上のYouTubeの動画の9:00あたりで並走しているはずですが、動画ではちょっと判別できません。




いつもループ線マニアをご覧いただきありがとうございます。

遅ればせながら今年も当ブログをよろしくお願いいたします。

次回はブロードゲージ・ループ線の残る二つのうちの一つ、スペインのループ線をご紹介いたします。





2017/11/21

中国⑫青蔵線旧関角ループ線群 思い出の高山ループ線

  • はるかなる天空へ続く鉄路
今回は中国青海省の青蔵線(通称チベット鉄道)のループ線をご紹介します。

青蔵線は世界最高所を走る鉄道として有名ですが、その成り立ちは極めて政治的な背景によるものでした。

1949年中華人民共和国が成立すると1950年にチベットに侵攻し、中華人民共和国領土であると宣言し、漢民族が大量に入植して人数でチベット人を圧迫していきます。その流れで着工されたのが青蔵線です。結局のところ兵士と入植者をチベットへ送り込むのが最大の建設目的だったことになります。

こちらからお借りしました
1958年にチベットへの入り口だった西寧から工事が始まり、文化大革命の混乱で一時工事がストップしたりしましたが、1979年に西寧~ゴルムド間830kmの第一期区間が開通しました。

高速鉄道を5年ぐらいで作ってしまう中国では、これは異例の長期プロジェクトだったと言えるでしょう。当初は軍用輸送専用でしたが1984年に一般旅客営業を開始しています。

なお、世界最高所を通る「天空の鉄道」として有名な海抜4000m以上の超高地区間は一期の開通区間内にはありません。海抜4000m超区間は2001年着工2006年開業の第二期区間ゴルムド~ラサ間です。こちらは延長1160kmと第一期区間よりも距離が長いにもかかわらず着工から5年で開通しています。


  • 富士山よりも高い大規模ループ線群
さて、青蔵線のループ線はチベット高原の入り口、青海湖の先にありました。元来標高は高くても全体的に比較的なだらかなチベット高原ですが、ところどころ急峻な山脈があり、交通を遮っていました。青海湖とその左下にポツンとあるツァカ湖(チャカ湖、茶卡盐湖)の境にある関角峠もその一つです。青海湖側はなだらかな丘陵になっていますが、峠の西側ツァカ湖側は急激に落ち込む鋭い谷になっています。

こちらからお借りしました
青蔵線は青海湖の周囲をぐるっと回って少しずつ高度を上げていき、峠を標高3800mの旧関角トンネルで越えたあと、深く切れ込む谷に向かって全長24km標高差400mをループ線とヘアピンターンの組み合わせで克服するルートで当初建設されました。

これが旧関角ループ線群です。へアピンターン群のちょうど中央にループ線があり、曲線半径は300m、勾配は15‰でした。ループ線は直近の駅名から二郎ループ線(二郎螺旋展線)と呼ばれていました。

ループ線と7か所のヘアピンターンが合わさった世界的にも大規模なループ線群でしたが、このループ線群は世界最高所にあるループ線でもありました。ループ線群の全体が富士山よりも高いところにあったと聞くとそのスケールに驚きます。


こちらからお借りしました
そのあまりにダイナミックな風景は中国の鉄道写真家の羨望の的でした。中国のループ線のフラッグシップ的位置づけでもあったようです。一応道路はありますが、近づくのも困難なこのループ線の写真がWEB上でいくつも見つかります。

鉄道写真撮影だけでも高山病になりそうで心配になりますし、加えて一番近くの町まで軽く100kmはある人跡未踏の辺境の地だったことも重要です。事故で死んでも誰にも気づいてもらえないところでした。鉄道写真のためにかなり本格的な登山装備が必要な、割と真剣に命がけの撮影だったと思われます。

  • 関角、再見!
冬の写真がほしい、と思ったけどよく考えると無理な注文ですね
こちらからお借りしました
この青蔵線がチベット地区にもたらした交通便益はまさに革命的でした。良いか悪いかは別にして、人も物も交流が一気に進み、もはやチベットは僻地ではないと言われるまでになりました。

さらに輸送強化を図るべく、第二期工事完成前の2005年から輸送力増強工事を実施してゴルムドまでの区間を複線電化することになりました。

この時、旧関角峠の部分は全長34㎞の新関角トンネルを建設して旧関角ループ線群を一気にバイパスしてしまうという中国らしい大胆な計画となりました。

新線の開通で30㎞距離が短くなり、所要時間が2時間短縮されました
この工事が完成した2012年以降、列車はすべて新関角トンネル経由に変更され、旧関角ループ線群は廃止されました。旧線が一般旅客営業していたのは28年間と比較的短命なループ線でした。

この青蔵線、現在はチベット地区への一大幹線となっており、旅客列車が北京、上海、広州、重慶、蘭州と中国各地から1日5往復走っています(重慶発着と成都発着は隔日交互運行、蘭州発着は隔日で西寧止まり)。西寧からゴルムドまで約7時間、ゴルムドからラサまで約13時間かかりますので、全線を日中に乗ろうと思うと途中駅で一泊必要になります。




  • 今なお開発が続くチベット
上の方で少し触れたツァカ湖は「中国のウユニ」と言われる非常に美しい湖で、ちょっと行ってみたいところです。ここにはシーズン中、毎日西寧から観光列車が出ており、西寧から日帰りできます。

また、チベット地区では鉄道建設のビックプロジェクトが目白押しです。

2017年11月現在、ゴルムド~コルラ線、ゴルムド~敦煌線がそれぞれ建設中です。タクラマカン砂漠を貫いて線路を敷くとかスケールでかすぎです。一般旅客営業をすぐ開始するかは分かりませんが、どちらもあと数年で開通する段階だそうです。

東洋のウユニ、ツァカ湖 
ただし本家よりも晴天率が著しく低いため青空の日に当たるには相当な強運が必要だそうです
さらにラサから先、ネパール国境までの鉄道も建設中で、途中のシガツェまでは2014年に開通しています。

またラサ~シャングリラ~大里~昆明の路線も建設中です。

地図上での距離は近くても一切の交通が断絶されていたチベットと雲南省・四川省が鉄道で結ばれるとどういう変化がおきるのか。

長江、メコン川、サルウィン川の三大河川が並んで流れる三江併流地域をどのようなルートで鉄道を建設するのか、興味は尽きません。ここも途中のラサ~林芝間400kmが2021年に開通予定です。

青蔵線自体もロマンあふれる鉄道ですが、今後しばらくチベット地区の鉄道網の発達は見逃せません。



有名なループ線シリーズは今回で終了です。

世界のループ線を紹介して丸2年、だいぶ残りが少なくなってきました。しかも有名なところをまとめて紹介してしまったのでマイナーどころばかり残ってしまいました。これはちょっとマズかったかもしれません。

次回からは残りのループ線をランダムにご紹介していきます。まずはヨーロッパなのかアジアなのか微妙なところにあるロシアのループ線をご紹介します。

2017/11/07

オセアニア④オーストラリア クーガル・スパイラル シンプルな味わいのオージーループ線


  • 日本の県境とはかなり違う

今回はオーストラリアのループ線をご紹介します。

オーストラリアは土地が広大で人口密度が少ないため、もともと鉄道旅客輸送にはあまり向いていません。実際オーストラリアの長距離旅客輸送は現在ではほとんど壊滅状態です。

一方石炭や鉄鉱石などの鉱物資源の鉄道輸送は大活躍しています。鉄道は運転士一人で何万トンもの鉱物を運べますが、トラック一台につきドライバー一人必須となるトラック輸送では、せいぜい200トンが限界です。人ひとりあたりの輸送効率では鉄道の圧勝です。今も昔も鉄道の最大のお客さんは鉱石です。

さて、オーストラリアの鉄道は州ごとに全然別の規格で独自に鉄道網を構築していったことが特徴です。それぞれの州政府が建設した公設鉄道を基に発展していますが、メルボルンを中心とするビクトリア州は1600㎜ゲージの広軌、シドニー中心のニューサウスウェールズ州は標準軌、ブリスベン中心のクィーンズランド州は日本と同じ1067㎜ゲージでした。

それぞれ州境での乗り換えや積み替えを余儀なくされており、不便なことこの上ありませんでした。この軌間混在は根本的には今でも解消されておらず、オーストラリアではあちこちにごく当たり前に三線軌区間が存在しています。

もっともオーストラリアの州境は、borderという単語で表されるとおり日本の県境よりもはるかに境界の意味が強く、どちらかというと国境に近いニュアンスです。

ニューサウスウェールズ州とクイーンズランド州の間では、1888年からニューサウスウェールズ鉄道北本線とクィーンズランド鉄道南線が州境のワランガラ駅で連絡していました。前述のとおりシドニー側が標準軌、ブリスベン側が狭軌で列車の乗り入れはできません。しかも海岸沿いに屏風のように立ちはだかる中央山脈を避けたルートだったため、かなりの遠回りとなっていました。

一時期中央山脈をループ線で越えるブリスベンからワランガラまでの短絡線が割と真剣に検討されましたが、ニューサウスウェールズ鉄道北海岸線をブリスベンまで延長することになり、短絡線計画はお蔵入りになってしまいました。もしもこの時、ワランガラへの短絡線が開通していれば、もう一か所ループ線ができていたことになります。マニア的にはちょっとだけ残念です。

  • 展望台から眺めるループ線

 こうして1930年にニューサウスウェールズ鉄道が標準軌のままクイーンズランド州に乗り入れるという形で、シドニー・ブリスベン間の直通列車が走るようになりました。この時州境の峠越えに建設されたのがクーガルスパイラルです。

クーガルスパイラルは峠のシドニー側の麓の街、カイオーグルからローガン川を遡った谷の突き当りにあります。

張り出した山の尾根を使って高度を稼ぐ形になっており、曲線半径は250m、勾配は15‰と資料にありましたが、おそらくこれは平均勾配でしょう。ループ線部分の高低差が地形図読みで70mほどですので、最急勾配は20‰ぐらいはありそうです。

見た目も形状も非常にシンプルなループ線ですが、尾根を回り込む形になっているため見通しはあまりよくなくて、列車の車窓からの眺めは期待できません。

ところが、このループ線付近一帯が国立公園になっており、ループ線を見下ろす場所にある道路がライオンズロードと呼ばれる州境地区国立公園の観光道路となっています。

ボーダーループ・ルックアウトBorder Loop Lookoutというループ線を一望のもとに見下ろす展望台が作られたり、ボーダーループ・ウォークというハイキング道も整備されるなど、積極的に観光資源化されています。
ボーダーループルックアウトからの眺め
1970年の写真だそうです。こちらからお借りしました

オーストラリアに2ヶ所しかないループ線のうちの一つでもあり、オーストラリアの鉄道趣味人にはアクセスしやすい格好の撮影スポットになっています。

難点は列車本数が少ないことです。テハチャピ峠や鳩原のようにばんばん列車が来ればいいのですが、ここは1日数回しか列車が通りません。

  • 旅客列車もまだ存命中


オーストラリアでは前述のとおり旅客輸送はほとんど瀕死ではありますが、さすがに人口500万人のシドニーと人口200万人ブリスベンの両大都市間には、一定の鉄道での旅客移動需要があるようです。

2017年11月現在、シドニーブリスベン間の夜行特急列車が1日1往復、クーガルスパイラルを越えて走っています。

ただし北向きのシドニー発ブリスベン行列車は深夜帯にループ線を通過するダイヤになっているのでループ線見物には使えません。ループ線通過を見物するのであれば南向きブリスベン発シドニー行列車に乗る必要があります。

また、この他に一日数本貨物列車が走っているそうです。

ループ線を走る夜行列車。4時間遅れで偶然日中撮影できたそうです。
こちらからお借りしました
オーストラリア大陸のループ線というと豪快なのをイメージしますが、ここクーガルスパイラルは規模も風景も極めてこぢんまりとした箱庭のようなループ線で、日本人の感覚にはマッチしているかもしれません。車でならブリスベンやゴールドコーストから余裕で日帰りできます。





次回は有名なループ線の最終回、中国のあのループ線をご紹介します。

2017/10/10

欧州㉖フランス ソンポール峠線セイエルストンネル もうすぐ復活!?悲運の事故廃止ループ


  • ピレネーの巡礼街道を行く国際ローカル線

今回はフランスとスペインの国境地帯ピレネー山脈の廃線ループ線をご紹介します。

ソンポール峠の路線図
現在ベドゥ―~カンフラン間33.2kmは列車が走っていません
フランスとスペインの国境を越える鉄道路線は4ヵ所作られました。大西洋線(仏:アンダイエ~西:イルン1864年)、地中海線(仏:セルベール~西:ポルトボウ1878年)、ピレネー東線(仏:ラトゥールカロル~西:プッチサルダ―1929年)と今回ご紹介するソンポール峠線(仏:ルフォール・ジュ・ダベル~西:カンフラン1928年)の4ヵ所です。

なお、2013年地中海線に標準軌の高速新線が開通し、フランスからTGVの直通列車の運転が始まりました。これを含めると仏西間の国際鉄道路線は現在5ヶ所となっています。

スペイン国内はイベリアンゲージと呼ばれる1668mmの広軌、フランス国内は標準軌です。鉄道創設期にフランスからの侵略を恐れたスペイン側がわざとフランスとは異なるゲージを採用したと伝えられています。スペインは大航海時代に覇権を築いた当時の列強の一画で、仏西間の国際鉄道は思ったよりもずっと早い1860年代から幹線として活躍していました。


  • 国境を越える線路にあった決まり事

仏西間の国際鉄道はちょっと面白い運転形態を取っていました。フランスの列車は国境を越えたスペインの最初の駅まで運転して、乗客も荷物も全部降ろした後、空車回送でフランス最後の駅まで戻ります。スペインの列車も同様に、フランスの最初の駅まで行って回送で一駅戻っていました。

ですので、国境を越える部分はどこも広軌と標準軌の線路が別々に引かれた単線並列の形になっています。現在ではフリーゲージトレインを使った直通特急も走っています。

ところが、このソンポール峠だけは原則と異なり、スペイン国内のカンフラン駅で双方が折り返す形となっています。国境にある全長7800mのソンポールトンネルが標準軌規格で、スペインの広軌の車両が通れなかったためです。さすがにこの長大トンネルを両国の規格で1本ずつ掘るのは経済的に無駄が多く、三線軌条にするには軌間差が少なすぎたということなのでしょう。

ただし、ソンポールトンネルのフランス側に、ル・フォール・ジュダベルという信号場がありますが、信号場~国境間と国境~カンフラン駅間がぴったり同じ距離であることから見ると、原則通りお互いに国境を越えて一駅間だけ乗り入れる形態を検討していたのではないかと思います。

このル・フォール・ジュダベル信号場跡は現在は周囲に何もない不思議な空間ですが、カンフラン駅のような国際連絡駅を作る意図があったとすれば納得です。なお、この信号場は開通早々に休止されたようです。ひょっとすると当初から信号場としては機能していなかったのかもしれません。

このソンポール峠線は1907年のフランススペイン間の合意で建設が始まり、1912年には国境のソンポールトンネルも開通していました。ところが第一次世界大戦のゴタゴタに巻き込まれて、実際に列車の運行が始まるのは16年も後の1928年になってからでした。

もともとこのソンポール峠への通り道アスプ谷は、エル・カミーノと呼ばれるカトリック教徒の巡礼路で、古くから敬虔なクリスチャンが多数行き交う街道でした。日本のお遍路道のようなものでしょうか。→くわしくはこちら 

わざわざこんな険しい谷に鉄道を敷設しなくても、というのはよそ者の考えなのでしょう。この峠を越えること自体に意味があったようです。

ソンポール峠線は、最急勾配43‰のハードな急勾配を克服するべく最初から電化路線として開業しました。ループ線はフランス側の最後の駅、ユルドス駅と谷の最奥部ル・フォール・ダルジュ信号場の間に作られています。

ループ線部分の大半が全長1792mのセイエルス・ループトンネルになっていて眺望は効きませんが、トンネルを抜けて断崖の上に出てきた時に谷を一望できました。トンネル内の勾配は34‰、曲線半径は270m~300m、標高差はループ線部分だけで70mとかなり大型のループ線で、急勾配であることを除けば国際路線にふさわしい立派な規格の路線でした。

  • 悲劇は突然に

ループ線から谷を一望できたようです
こちらからお借りしました。(他にも貴重な写真多数あり)
1970年の早春、峠をカンフランに向かっていた貨物列車が駅の手前で坂を登れなくなってしまいました。

この日は貨物が多く、おまけに機関車の調子が良くなかったため、機関車に備え付けられていた砂撒き装置の砂も全部使いきっていました。

機関士と助手は止まってしまった機関車から下りて、線路の回りの砂を車輪の下にまいていました。

ところが、調子が良くなかったのは実は機関車ではなく変電所の方でした。機関車の出力が上がらなかったのは架線電圧降下を起こしていたためで、停車中に電圧がゼロになって停電してしまいます。

勾配の途中で立ち往生した貨物列車は徐々にブレーキ圧が抜けていき、ついに列車の自重で逆走し始めてしまいました。こうなると機関士たちにできることは何もありません。トウモロコシを満載した貨物列車は5km逆走して時速100㎞を越えるスピードでエスタンゲ鉄橋に激突し、大破してしまいました。

幸いけが人は出ませんでしたが、フランス国鉄SNCFは多額の費用がかかるからと早々に復旧を諦めてしまいます。ソンポール線のベドゥ~カンフラン間はあっさり廃止とされてしまいました。

災害で廃止になった鉄道路線は歴史上まで多数存在しています。岩泉線とか高千穂鉄道など近年の日本でもいくつか実例があります。

ところがこれは災害ではなく事故で、しかも鉄道事業者の責任事故です。それなのに早々に復旧を放棄してしまうのはちょっと不可解な感じもします。もとからいずれは廃止したいという意向だったのでしょうか。フランス国鉄は妙に割り切りがいい時があります。かろうじて残ったベドゥまでの区間も1985年には需要減少を理由に廃止になっています。

いずれにしてもカンフラン線のループ線は今のところ世界唯一の「事故で廃止になったループ線」です。あまり褒められた称号ではありません。

ところが、近年環境配慮の機運の高まりで事態が変化します。2008年に平行する国道が地すべりで片側通行になり、とんでもない大渋滞を起こしたことから鉄道輸送が再評価されることになりました。廃線区間の線路や橋梁などが比較的よく残っていたこともあり、2016年に修復工事を経てベドゥまで旅客運転が復活しました。ただし電化は復元されませんでした。現在は1日5往復のディーゼルカーが走っています。

ソンポール峠線の復活運動はかなり盛り上がっており、地元自治体の資金援助も受けて2020年までにカンフランまでの全線を復活させると鼻息が荒いです。ループ線が華麗に復活するか、ここ数年が勝負どころです。


  • 山間の国境駅カンフラン

ついでですので、国境を越えたスペイン側の路線にも少し触れておきましょう。

上がフランス側、下がスペイン側です
ソンポール峠線の終点、カンフラン駅(スペイン語ではカンフランク駅)は山間に突如出現する巨大な国際駅で、壮麗な建物とフランスから列車が来なくなった絶妙の廃墟感で一部にカルトな人気スポットとなっています。映画の舞台にもなったそうです。

配線図を見るとスペイン規格の線路がフランスからの列車を包むような形になっています。一応ここからスペイン側は現役で、ハカまで1日2往復ディーゼルカーが走っており、列車で訪れることが可能です。

またこのカンフラン・ハカ線には途中に大きなダブルヘアピンがあります。立体交差していないのでループ線ではありませんが、サンホアン陸橋という特大の陸橋で高度を稼ぐなかなかの鉄道名所です。

ひなびた山間部の巨大な国際駅はインパクト絶大です
駅舎内部は現在鉄道博物館になっているそうです








次回はオーストラリアのループ線をご紹介します。