2017/06/25

北米④アラスカ鉄道ザ・ループ ループ線が廃止になった前代未聞の理由とは

  • アメリカ最後のフロンティア、それがアラスカ
前回に引き続いてアメリカ合衆国内からアラスカのループ線をご紹介します。

アラスカがアメリカ領になったのは1867年で、割と最近のことです。

当時広大なアラスカはほとんど無人地帯でしたが、1900年ごろ金鉱が見つかり、山師が大量に押しかけてアラスカの町はおおいに賑わったそうです。

それでも1912年のアラスカの人口が58000人だったと言います。「58万人か、面積を考えるとちょっと鉄道輸送には人口が足りないかな」とか思っていたら、さらに一桁少ない5万8千人でした。これではとても鉄道輸送が成り立つ規模ではありません。

実際アラスカの南岸の港町シューワードを起点とする初代アラスカ鉄道は、1903年の開業からわずか6年で倒産しています。その後もいくつかの民間会社が内陸に向けて少しずつ路線を建設しては倒産するということを繰り返します。

鉄道は民間資本で建設されるのが原則だったアメリカですが、ここアラスカでは一般の民間企業が鉄道経営を行うのは経済的に無理だったようです。

1920年代になるとアメリカ連邦政府が民間会社を買収して、例外中の例外で直轄での鉄道運営に乗り出しました。現在は州政府が保有しているので国営鉄道ではなくて公営鉄道となっています。

アメリカ連邦政府が原則から外れてまでアラスカに鉄道を建設したのは、アラスカ内陸部の豊富な鉱物と木材の輸送と、冬の間の交通路確保の意味合いが強かったようです。

ゴールドラッシュ自体は10年ほどで鎮静化します。採掘管理が厳しくなり、誰でも一攫千金というわけにはいかなくなったのが原因です。金が採れなくなったわけではなく、採掘は今も続いています。

そんなアラスカの大地にあるループ線は1909年にシューワード・ウィッティアー間に作られました。氷河地形独特のU字谷の縁を越える位置にあり、全長5km、高低差約80m、最急勾配22‰、曲線半径160mと規模もスペックもごくごく普通のループ線でした。

1952年に新線に切り替えられるまで夏のアラスカの鉄道名所としてアメリカの主要都市でさかんに宣伝され、ループ線は"The Loop"、ループ線の前後の区間は"The Loop District"と地名のごとく呼ばれた全米で有名な鉄道名所でした。

個人的には、この "The Loop"というアメリカ的な豪快な名称がツボなんですが、単にこの周辺の人口が希薄すぎて地名がなかったようです。ちなみに周辺の山、川、町等の名称はほとんどゆかりのある人名に由来したものだそうです。

  • 驚きのループ線廃止の理由とは・・・
このループ線は氷河をまたぐ巨大な木造の橋とトンネルで有名でした。氷河そのものをまたぐ鉄道はおそらく世界でここだけだったでしょう。しかし、この巨大木造橋とトンネルにはメンテナンスにとんでもなく手間とコストがかかるものでした。

文字通り掃いて捨てるほどあるアラスカ産木材を使った
巨大な橋が氷河をまたいでいました
零下40度にもなるアラスカでは、トンネル内や橋梁上の線路がすぐ凍結してしまうため、冬の間は線路際の小屋で薪をたいて四六時中暖め続けるという気の遠くなるような手間のかかる保守をしていたそうです。

結局1952年にトンネルと橋を通らない新線が建設され、ループ線は廃止されました。

ところが、この新線、よく見るとかなり違和感があります。

長大トンネルを作ったわけでもないし、急カーブを解消したわけでもないし、少しルートを変えただけで似たような場所を通っており、勾配緩和にもなっていません。

最初からトンネルと橋のないルートで線路を引けば良かったのでは?なぜ当初わざわざメンテナンスに手間のかかるループ線を建設したのか、とずっと謎に思っていました。

新旧路線図。点線が旧線です。

このループ線地帯の中央部を流れるブレイザー川は1930年ごろまでバートレット氷河という氷河の一部で、アラスカ鉄道の木造の橋は文字通り氷の上に建設されていたのは前述の通りです。ところが調べていくと、温暖化のせいで1940年の後半には鉄道の路盤に影響がないところまで氷河が後退してしまったとありました。

こちらからお借りしました。貴重な現役時代のカラー写真です
そうなると氷河を避けるために作られた木造の橋とトンネルは無用の長物、ただのメンテコストの金食い虫に成り下がってしまいます。

もはや氷河の再前進が起こることはない、と専門家に判定されたことを受けて、冬季におそろしくメンテの手間のかかっていた木造橋とトンネルを廃止して、ヘアピンターン一か所だけのシンプルな新線に付替えられたのでした。


ループ線が廃止される場合の理由は、おおむね「輸送需要の減少」か「勾配をバイパスする新線の建設」のどちらかですが、ここは「地形が変わってループする必要が無くなった」のが廃止理由です。これは世界のループ線の中でも唯一無二の存在で、マニアとしては見逃せません。


  • 冬の鉄道の安心感は異常
アラスカでは今でも道路の通じていない町があり、道路があっても厳寒の極低温期には車が使いにくいため比較的鉄道輸送のシェアが高いのが特徴です。冬季の自動車輸送は、雪と氷で走りにくいのもありますが、ガス欠や故障イコール凍死なので移動手段として危険すぎるそうです。

現在のアラスカ鉄道→公式HPは観光鉄道のような雰囲気に見えますが、厳冬期でも数は減りますが旅客輸送が休止されることはありません。

この区間を通過する旅客列車は夏季は毎日2往復運転されています。

アンカレッジ発のCoastal Classic Train と Glacier Discovery Trainの2列車が旧ループ区間を通過しています。

名物だった木造橋はすでに残っていませんが、今でも車内から氷河を遠くに見ることができます。

  • おまけ~世界最長の併用トンネル
アラスカ西部の不凍港のウィッティアーへ行く路線に、アントン・アンダーソン・メモリアルトンネルという全長4kmのトンネルがあります。これがなかなかの鉄道名所で、世界最長の鉄道道路併用トンネルです。

 このトンネルは零下40度、風速70m/秒になる冬場の気候に耐えられるように設計されているとのことですが、鉄道と道路の共用で車道は一車線分しかありません。

当然、車は一方通行で、1時間に1回、15分間だけ車が通れるそうです。トンネルの両側に大きな駐車場があり、通れるようになるまで駐車場で待ちます。夏場のシーズンなどは2時間待ちぐらいになったりするそうです。

なお、トンネルの通行は鉄道優先で、列車が通過する場合は車の方があらかじめ通行止めになるそうです。

通行料は13ドルと結構高いですね。こちらに詳しく出ています →アラスカ政府公式ページ



なかなかアラスカは鉄道マニア的にも面白そうな場所が点在していますね。





次回はアフリカの絶景ループ線をご紹介します。




2017/05/29

北米③テハチャピ峠 フロンティアスピリッツあふれる全米NO1ループ線

  • ロスからサンフランシスコへ続くフリーウェイを…

今回は北米からアメリカの超有名なテハチャピループをご紹介します。北米のループ線をご紹介するのはカナダのニューファンドランド島トリニティループをご紹介して以来です。合衆国国内のループ線は初めてになります。

テハチャピループはロサンゼルスからサンフランシスコに向かう途中にあるループ線です。

こちらからお借りしました →Pinterest
もともとロサンゼルスからサンフランシスコに向かう鉄道路線は主に2つのルートが作られました。

海岸沿い北上してサンホセを経由するルートと、先にシェラネバダ山脈を越えてベイカーズフィールドからサンホアキンバレーを北上するルートです。

このうち海岸ルートは海沿いの断崖絶壁と山脈を越える勾配で重量貨物輸送には不向きだったため、ロサンゼルスから一旦モハーヴェ砂漠を通ってサンホアキンバレーに抜ける山側のルートが重宝されました。

このモハーヴェ砂漠とサンホアキンバレーの間のシェラネヴァダ山脈を越えるところに建設されたのがテハチャピループです。

テハチャピループの開通は1876年で、サンフランシスコからロサンゼルスに向かって南向きに建設されました。この時代、北米大陸横断鉄道の終着点はサンフランシスコ(正確には少し内陸のサクラメント)で、そこから西海岸沿いに路線が延伸していった形でした。この区間は当時のサザンパシフィック鉄道が開通させています。ループ線としては1882年開通のゴッダルドバーンよりも早い世界最古のループ線の一つです。

ロサンゼルスは背後の山を越えるとすぐ広大なモハーヴェ砂漠で、この時代は山越えよりも砂漠越えの方が難易度が高かったのでしょう。

ループ線の勾配は22‰、曲線半径は直径1210フィートと資料にあり、これを換算すると半径184mになりますが、衛星写真で測ってみるとそんなにありませんでした。おそらく半径175mだと思います。

ベーカーズフィールドから南に向かって上り坂で、ループ線の南西にあるテハチャピの町が最高点です。ベーカーズフィールド・テハチャピ間は直線距離約40kmで高低差約1000mを上るかなりの連続急勾配となっています。

  • 今も残る西部開拓時代の雰囲気

テハチャピループは、いかにもカリフォルニアという雄大な景観の中を、全長1.6kmにもなる超重量貨物列車が頻繁に走っており、全米の鉄道写真愛好家には絶大な知名度の撮影地となっています。

WEB上で見つかる写真の数ではブルージオを上回っているかもしれません。

また、テハチャピループは非常に変わった形状をしているところも見逃せません。ω型といいましょうか、ハート形といいましょうか、ループ線進入前と退出後に輪の外側をさらに半周ずつ回っています。このような形のループ線は世界でもここだけです。衛星写真で見るとタコのようにも見えます。

ここでは単線区間にもかかわらず1日20往復40本(通常時)の貨物列車が走る超高密度区間です。

「1日40本なんて大したことない」と感じるかもしれませんが、1本の列車が通過するのに5分以上かかる長大列車ばかりですので、実はこれはなかなかすごいことです。

ベイカーズフィールドとテハチャピの間には全部で10箇所の信号場があり、貨物列車の長さに合わせた有効長の信号場を選びながら運行しているそうです。とんでもない綱渡り運用ですね。

なお、テハチャピループのほとんどはワロング信号場の構内になっており、一見したところ複線のように見えます。

  • 狙えば乗れないこともないと言われると乗りたくなるのがマニア

現在、テハチャピ峠では各信号場の有効長拡大と信号所間の複線化工事を随所で行っています。これだけの輸送を担っている重要区間ですのでこれでも今さら感がありますが、なぜ全区間複線化という話にならないのかちょっと不思議です。このあたりの土地代はただ同然ですしね。ちょっと投資に慎重すぎるような気もします。

黄色の単線区間が現在複線化工事中
実はアメリカでは19世紀の鉄道黎明期から現在に至るまで、戦争中を除いて国営鉄道が存在したことがありません。テハチャピループも開通当初からずっと私鉄の一路線です。

大部分の国で国土交通政策の一つとして計画建設される鉄道路線が、アメリカではずっと私企業の営利目的で建設されていたのはちょっと興味深いです。

これには功罪両面があると思いますが、儲かるところに複数社が路線が競合して運賃安売り競争の末共倒れしたり、儲からないところは速攻で廃線になったりすることや、建設費圧縮と早期利権確保を狙って粗雑な設備でとりあえず開通し、その結果事故が多発すること、利幅の少ない鉄道旅客輸送が早々に見捨てられたことなどは明らかに負の側面です。

現在ではおおむね日本のJRのような地域路線保有会社に運行会社の車両が乗り入れる運営形態で安定しているようですが、世界的に流行している高速鉄道がアメリカでなかなか具体化しないのは今も続く民間優先思想の弊害でしょう。

このテハチャピループでは残念ながら現在定期の旅客列車はありません。ベーカーズフィールド以北はサンフランシスコまで旅客列車が毎日走っているのですが、ベーカーズフィールド・ロサンゼルス間はバス連絡となっています。

ところが、ロサンゼルス~シアトル間を結ぶコーストスターライト号という特急列車が、海岸線の工事運休期間中テハチャピ経由で迂回運転をすることがあります。

最近では2017年2月5日~2月21日の間、テハチャピループ経由で運転されていました。その前が2012年、さらにその前が2008年だったそうなので、だいたい5年に1回ぐらい迂回運転があるようです。次は2021年~22年ごろでしょうか。実際の乗車記がありました。→こちら

You Tube に動画もありました。







次回は北米大陸からもう1ヵ所、前代未聞のループ線をご紹介します。

2017/05/18

欧州㉔レーティッシュ鉄道ベルニナ線ブルージオループ橋 海外のループ線といえばこれ  

  • ダントツの知名度を誇る

さて、今回からしばらくの間、有名な、あるいは有名だったループ線をシリーズでご紹介していきたいと思います。

これまでにも樺太の豊真線宝台ループ阿里山森林鉄道ダージリンヒマラヤ鉄道といった有名なループ線をいくつかご紹介してきていますが、これからご紹介するのは、みんなが知っているから有名というものばかりではなく、あくまで「ループ線マニアの視点から見て”有名”」なループ線をご紹介していきたいと思います。どんなループ線が出てくるか、お楽しみにどうぞ。

まずは、普通に世の中で超有名なスイス・レーティッシュ鉄道ベルニナ線のブルージオ・ループ橋をご紹介します。さすがにこれは誰でも知っているでしょう。現時点で文句なしに世界一有名なループ線です。
定番アングルのブルージオループ橋。こちらからお借りしました
電車8両編成に見えますが、実は右側3両は旅客も乗車できる電気機関車で
左側5両は客車です。この後ろに貨車が連結される場合もあります
レーティッシュ鉄道は以前のエントリのアルブラ線でご紹介したとおり、スイスの南東部、地図で言えば右下のイタリアとの国境あたりに路線網を持つメーターゲージの私鉄です。

そのうちベルニナ線はサンモリッツから南下してベルニナ峠を越え、スイス領土内では数少ないイタリア語圏を貫通して標高差1700mのベルニナ峠を越える全長60㎞のガチな山岳鉄道です。

箱根登山鉄道を建設する際にこのベルニナ線を参考にした縁で、箱根登山鉄道にはベルニナ号という愛称がついた車両が今も走っています。


このベルニナ線は実は国際列車です。終点のティラノは国境を越えてイタリア領内になります。とは言ってもイタリア領内を走るのはほんの2kmぐらいだけで、隣のカンポコログオCampocologno駅は既にスイス領に入っています。

ブルージオのループ線はティラノから3つ目のブルージオ駅手前に作られました。曲線半径は下半分50m、上半分70mの変曲ループです。勾配は驚愕の70‰、全長500mしかない小規模なループ線ですが、ここだけで高低差35mを稼ぐ点はさすがの登山電車と言えるでしょう。

ベルニナ線は1910年の全通ですが、峠の部分を残して両側から建設が進められており、ループ線の部分は一足先に1908年に開通しています。開通当初から750V直流電化(後に1000Vに昇圧)で70‰勾配に対応するように作られました。

開業時からしばらくはベルニナ鉄道という独立した私鉄として運営されていましたが、第二次大戦中にレーティッシュ鉄道に統合されました。軍事輸送を睨んだ戦時合併の要素が強かったようです。

1960年代に一時モータリゼーションと人件費の増大で経営難に陥りますが、1970年に観光鉄道として売り出し、世界遺産に登録された2000年代以降、一気に世界一の知名度を誇るループ線となりました。


  • 珍しいのはそこじゃない

ところで、ブルージオのループ線は「日本では珍しいオープンループ」として有名になったあまり、いつの間にか「日本では」という部分が抜け落ちてしまい、「オープンループは珍しい」という誤解のもととなってしまいました。面倒なので数えていませんが、世界のループ線のうち半分とまでは行かずとも3分の1ぐらいがオープンループで、実はオープンループ自体はそれほど珍しいものではありません。特に雨の少ない地域ではごく普通にあるものです。

このアングルは少し珍しいです。こちらからお借りしました
マニア的にはオープンであることよりも「人工的に高低差を稼いでいる」という点に注目すべきでしょう。写真で分かる通り、ブルージオのループ線は立ち上がりから高架橋で高度を上げていきます。

このような人為的に高度差を作っているループ線は、世界でもここと中国の満州北朝鮮咸北線、ドイツのレンツブルクハイブリッジの4カ所にしかありません。

中国と北朝鮮のものは既に廃止されているので、現役の山岳鉄道で人工高度稼ぎをしているのは世界でここだけということになります。

なお、スイス観光局のHPでは「珍しいオープンループ橋」と紹介されており、この表現だと間違っていません。オープンループ線は珍しくないですが、オープンループ橋は確かに珍しいものなのです。ただ直径70mと書いてあるのは半径70mの間違いですね。

  • あえてローカル列車で行くのもあり


あまり話題になりませんが、ベルニナ線のティラノ周辺には
江ノ電のような併用軌道区間があります
マニア的にはここも結構楽しい区間です
現在ブルージオのループ線はアルブラ線と同様、ローカル輸送でも活躍しています。

ローカルの普通列車が夏季13往復、冬季10往復(夏冬とも2往復はポスキアーヴォ~ティラノ間の区間列車)運転されています。夏季はおおむね日中1時間に1本の運転です。

ローカル列車の他に有名な観光列車ベルニナエクスプレスが夏季4往復、冬季2往復ありますが、ここではローカル列車よりもベルニナエクスプレスの方がスピードが遅いのが特徴です。おそらく長大編成で走るからだと思います。ベルニナエクスプレスは予約必須でシーズン中は満席で乗れないことも多いそうです。

時刻表はこちらのページに詳しく出ています。 →こちら

また、ベルニナ線はブルージオ・ループ橋以外にもティラノ周辺の併用軌道区間、カデラの4連ヘアピン区間、氷河湖の湖畔を走る区間など、マニア心をくすぐる見どころ満載です。伊達に有名なわけではありませんね。




さすがに世界一の知名度を誇るループ線だけあって資料が豊富に見つかりました。今回は資料集めが楽しかったです。これがマイナーなループ線だと難行苦行になったりするんですけどね。

次回はアメリカ人の心を捉えて離さないカリフォルニアのループ線をご紹介します。


2017/04/28

南米③アジア⑩未成のループ線その2 ボリビア ズダニェス・スパイラル&北朝鮮咸北線

  • アンデス山中の知られざるワールドクラスのスパイラル
前回に引き続いて未成・短命ループ線を見て行きます。

今回は南米の素性がよく分からないミステリアスな未成ループ線と、北朝鮮のかろうじて列車が走った記録の残るループ線をご紹介します。

まずは南米ボリビアの中央部、標高2800mの古都スクレから南東に行ったところにあるズダニェス・スパイラルです。

何はともあれ、とりあえず衛星写真のスクリーンショットをご覧ください。なぜか南米地域だけはGoogleよりも解像度が高いBing Mapで見ると分かりやすいです。



衛星写真にこれでもかと言うぐらいはっきり超特大規模のループ線の路盤が映っています。ズダニェスの町から約20㎞南の無人の山の中で、こんなところにこれだけの規模のループ線があるとは一瞬信じられません。路盤を着色すると右のような感じです。駅跡っぽいものも画面右に見えます。

全長8km、高低差250m、中央の山の回りをほぼ2回転するループ線を挟んで前後に5つのヘアピンターンを持つ世界トップクラスの規模です。写真左上に向かってのぼり勾配で、3段になっている崖の縁に沿って高度を上げていきます。勾配は地形図読みで25‰程度です。

ボリビアは東西を結ぶ鉄道路線がありません
道路も少なく、東西連絡は長年の悲願だったそうです

ところが、このループ線、少なくとも現役でないことはすぐ分かるのですが、いつ誰がどのように建設し、そしてどのように廃止になったのか、最初はまったく分かりませんでした。

世界銀行資料より。赤線は当方で追加。原本はこちら
この謎の路盤を衛星写真でたどっていくとタラブコを通ってスクレまで続いています。スクレ・タラブコ・鉄道で検索していると、「スクレ・タラブコ間は1週間に20人しか乗客がおらず、はなはだ不経済なので1973年6月末までに廃止することで合意した」と書いてある資料を見つけました。

スクレ・タラブコ間約80kmが1970年代の初頭まで営業運転を行っていたことはこれで分かりましたが、この時タラブコより先のループ線までの線路がどうなっていたのかというと、これがまたよく分かりません。

赤線は当方で追加
必死に調べてやっと検索に引っかかってきたのが右下の資料です。スペイン語で「1947年ごろタラブコから100kmのチャコリョ Chacolloまで盛土の工事が終わっていたが、50年代に工事が中止された。理由は分からない。」と書いてあります。チャコリョは上の衛星写真よりも少し左にある村の地名です。

ここまで調べてやっとこのループ線が未成線だったことが判明しました。以上の断片的に分かったことを繋ぎ合わせて、当ブログでは次のように推測しています。

1940年代後半にスクレから、タラブコ・ズダニエスを通ってボユイビ間を結ぶボリビア東西横断鉄道の建設が始まりましたが、1950年代にとん挫してしまいました。この段階でズダニエス・スパイラルの少し先まで土木工事が行われており、その痕跡が今も衛星写真に残っているものです。

工事がとん挫した原因はボリビアの政情不安によるものだと思いますが、はっきりしません。完成していたスクレ~タラブコ間ではとりあえず営業運転が始まっていましたが、需要が少なく1973年ごろに廃止になりました。

  • 鉄道建設は完成してこそ価値がある。当たり前なんだけどね 

本当にバスの車体に車輪を付けた車両が走っています
こちらからお借りしました
ボリビアでは、アンデス山脈沿いとアマゾン平原間を結ぶ東西交通の建設が長年の悲願でした。そこに太平洋側との交易を狙ったアルゼンチンの思惑が一致して、アルゼンチン資本で鉄道建設が始まったのだと推測できます。

ところが、政情の安定しないボリビアにアルゼンチンの投資家が逃げてしまい、資金不足で工事が中断してしまった、という感じでしょうか。

ここも完成さえしていれば、ボリビアの最重要幹線になった可能性も大きいのですが、人口の少ない山の中の盲腸線では維持に金がかかるだけで廃止されたのも無理はありません。完成しなかった地域間連絡路線の末路は古今東西どこでも厳しいものです。日本にもいくつも例がありますね。

なお、この路線のスクレ~ポトシの間は現役で、2017年現在でも旅客列車が走っています。列車と言っても単行のレールバスで、週3往復しかありません。日本人の鉄道の感覚でいるといろいろ衝撃的です。詳しく紹介しているページがありましたので一度見てみてください。→こちら
※2017年末時点では運転されていないそうです。廃止なのか休止なのかは不明です。

また、21世紀になってまたボリビア東西鉄道建設が取り沙汰されているようですが、北側のコチャバンバからサンタクルーズに抜けるルートが有力視されており、ズダニエスに線路が復活する見込みはほとんどありません。

書き忘れていましたが、タラブコはブエノスアイレスが河口のラプラタ川流域、ズダニエスはアマゾン川流域で、どちらも最源流部分でもあります。水域マニアが喜ぶ大変川の流れが入り組んだ地域でもあります。

  • 人知れず残る大陸への足跡

さてもう一か所は北朝鮮です。こちらも先に画像をご覧いただいた方がいいでしょう。


拡大地図の表示

清津(チョジン)から中朝国境に向けて約30km行ったところにループ線らしきものが映っています。ループ線の曲線半径は400m、高低差70mほどです。衛星写真で線路をたどっている際に偶然見つけたものなのですが、未成線か工事中の路線かなと思っていました。

昭和9年(1934年)の路線図です。
咸北線は二度目の満鉄委託になっており青線で描かれています
「百年の鉄道旅行」さんのサイトから抜粋でお借りしました。
この路線は咸北(ハムブク)線という路線で、日本統治時代の1916年(大正5年)に北鮮の港と満州連絡のために朝鮮総督府鉄道として開通しました。まだソウル方面からの路線が開通しておらず、離れ小島の路線だったため、運営はまるごと満鉄に委託されました。1928年(昭和3年)にソウル~清津間の咸鏡線が開通して離れ小島は解消され、晴れて鮮鉄直営になります。

この時代、沿線で採れた石炭と水力発電から得られた豊富な電力をもとに清津では重工業が爆発的に成長し、一帯は新潟との間に北鮮航路も開かれて、日本・朝鮮・満州の3つの地域を結ぶ最新の工業地域になっていきました。咸鏡線も超重要な大幹線となります。

ところが、満州事変の勃発により咸鏡線は日満連絡北鮮ルートの重要幹線として再度満鉄に運営委託されます。最終的に満鉄の委託運営がなくなったのは1940年(昭和15年)のことでした。

ここまで調べたところで、このループ線は戦争末期の輸送力増強工事中に敗戦となり、放棄された未成線の残骸かな、と推測していました。

  • プロの記憶は侮れない
それ以上調べる方法もなかったので、未成線と個人的に結論づけていたのですが、それは大きな間違いで、意外なところから正解が見つかりました。それがこちらの文章→「咸北懐記へようこそ」です。一部を引用させていただきます。
 
昭和十六年、古茂山~蒼坪間に石峰信号所が設置された。退避線が出来て、咸鏡線は茂山嶺の峡谷沿いに迂回して、長円を描きながら、石峰信号所の上あたりで、目が回るような高い、しかもカーブのピーヤを渡り、ループ状に峡谷をひとまたぎして、茂山側の山腹を大きく巻いて蒼坪にいたる十五.三キロの一部新線に変わり、勾配率も曲線率も大幅に緩和された。

 それでも、十九年十月一日改正の時刻表によれば、下り三二五列車(図們行)は古茂山~蒼坪の一区間を四十三分運転。(上り三二六列車は二十六分)続く七ッ隧道の蒼坪~全巨里間 五.八キロを二十分運転、たった二駅走るのに一時間以上かかったのだ。如何に急勾配の難所であったか、今の時代では想像も出来ない。直線距離にすれば、つい目と鼻の先指呼の距離である。
この文章は衝撃でした。機関士さんだった方の体験手記ですが、引用部分以外にも当時の朝鮮半島の鉄道の様子だけでなく、大陸に進出した日本人と現地の朝鮮人とのやり取りなどが超リアルに記されています。政治的な話を抜きにして是非ご一読することをお勧めします。この文章にはかなりの学術的価値があると言っても過言ではないと思います。

朝鮮戦争時1950年のアメリカ軍作成の地形図
はっきりとループ線が描かれていて感動しましたが、
この時代は列車は走っていないはずです
テキサス大学地図ライブラリ許諾済み

この「咸北懐記」によりますと「昭和16年」に「退避線のある石峰信号所」ができて、「信号所の上にはループ線がまたいでいた」とのこと。これがまさに上記の写真のループ線で間違いなさそうです。なお、文中に出てくる「ピーヤ」とは橋台のことですが、この文章では高架橋のような意味合いで使われています。

1945年(昭和20年)の敗戦以降の咸北線の足跡は部分的にしか分かりません。清津は昭和20年8月の敗戦直前にソ連軍に占領されており、この時点から朝鮮戦争終了までループ線を含む咸北線の運行は停止していたものと思われます。朝鮮戦争後の1960年代に中国とソ連の援助で復興されたと新聞に書かれています。

どうやら朝鮮戦争後の咸北線復旧時にループ線を経由しない新線を引き直したのが現在の咸北線で(下の地図の黄線)、この時にスィッチバックだった石峰信号所も現在地に移転して通常駅に改修されたのではないかと思います。この時旧線(下の地図の緑色の線)の路盤を一部流用したため線路の遷移が非常に分かりにくくなっています。

衛星写真にも複数の線路跡が写っており、パッと見ただけでは経緯が分かりません。韓国のオンライン辞書では日本式のスィッチバックを知らないからでしょうか、「意味の分からない側線がたくさんある謎の駅」と紹介されています。

この咸北線石峰ループは、昭和16年から20年までの4年間だけ列車が走っていたことになります。実際に開業したループ線の中では間違いなく世界一短命です。スィッチバック付きループ線だったことや、築堤を使って自力で高度を稼いでいたことなど相当珍しい形態のループ線だったこともポイントです。さらにそれに加えて樺太の宝台ループと同様、日本人が大陸に残してきた足跡だったことも記憶しておく必要があると思います。

なお、石峰信号所一帯はかなり南に向かって下がっている傾斜地で、そのスィッチバックでは折り返し線を水平に引き出すために北側は地面を掘り下げ、南側は築堤で持ち上げてあります。折り返し線の北端はループ線をくぐっていたようで、スイッチバックとしても非常に珍しい形態だったと言えます。





さて、未成短命ループ線をご紹介してきましたが、さすがに超ド級のマイナー度でアクセスが全く伸びませんが、まあそれは覚悟の上です。

ズダニエス・スパイラルも石峰ループもまだ分からない部分も多いので、これからも少しずつ調べて行きたいと思っています。石峰ループはできれば現地に行ってみたいのですが、今の情勢を見るに1億%無理でしょう。

超マイナーループ線は一旦おいておいて、次回からしばらく、有名な、あるいは有名だったループ線をご紹介していきます。

まず、次回はループ線の代名詞にもなっているあれから見て行きましょう。


2017/04/18

欧州㉓未成のループ線その1 シチリア島・リエージ線&フランス・トランセヴナール線

  • 欲張りすぎてはいけない

今回は不幸にも列車が走らなかった未成ループ線をご紹介します。完成したかどうかは別にして、工事したにもかかわらず列車が走らなかったというループ線を超マニアックに取り上げていきます。まずはヨーロッパの未成ループ線を2か所見てみましょう。

1ヵ所目はイタリア・シチリア島南西部のリエージ・スパイラルです。

シチリア島の南西部のカニカッティ近郊にはトラビア・タッラリータ鉱山という大規模な硫黄鉱山があり、19世紀には多くの人口を有していました。鉱石の搬出と鉱山労働者の通勤用に早くから鉄道建設が望まれていました。

ロープウェイのような運搬機械を使って鉱石輸送を行っていたようですが、イタリア国鉄線がカニカッティまで完成したことから、鉱山労働者が多数住んでいたリエージとカニカッティ間の全長34kmの鉄道建設が1910年ごろから始まりました。


まるで古代遺跡のような風景が続きます
開通していれば景色の良さではトップクラスになれたのに惜しいです
Ruggero Russoさんのサイトよりお借りしました
→UNA FERROVIA MAI NATA: LA CANICATTI' - RIESI
当初は早期開通を目指して950mmゲージで建設が進められましたが、第1次世界大戦で工事は中断します。

第1次大戦後の1930年代後半に工事を再開した際に、国鉄線と直通しシチリア島東西を結ぶ幹線級の路線にしようとの目論見で標準軌規格での建設に変更しました。

カニカッティ~ソマンティーノ間約20kmは既に950mmゲージ規格で土木工事の大半が完了していましたが、残りの区間の完成に合わせて標準軌規格に修正する計画だったようです。

ところが、1940年代に第2次世界大戦で再度工事が中断してしまいます。戦後は肝心の硫黄鉱山がすっかり斜陽化してしまい、ほとんど完成していた土木構造物だけを残して、線路が敷かれることなく1950年代に正式に放棄されました。

結果的には、標準軌規格に変更したことが敗着となってしまいました。なんとも皮肉なものです。950mmゲージのまま建設が続けられていれば、少なくとも一度は開業できたと思われます。

標準軌に変更したがために完成が遅れ、その数年の遅れが致命傷となった世界でも指折りのかわいそうな路線です。もっとも950mmゲージのまま開業していたとしても第2次大戦後のモータリゼーションで結局廃止になっていた可能性も否定できませんが。

衛星写真でもはっきりと痕跡が残っており、線路さえ引けばすぐにでも列車が走れた様子が伺えます。

なお、リエージは現在治安最悪のマフィアの町として有名になってしまっているようです。現地に行くには相当の気合いが必要かもしれません。



全線の様子はこちらが詳しいです。→Ferrovie Abbandonate イタリアの廃線 
これを見ると950mm規格の西半分カニカッティ・ソンマティーノ間と標準軌規格の東半分ソンマティーノ・リエージ間では明らかに線形に差があるのが分かります。


  • 合併された側の悲哀

もう1ヵ所はフランスの南部、ローヌアルプ地方の深い山の中に建設されたトランセヴナール線です。

ラ・ルー峠以北はほとんど完成していました
この路線は、1850年代にグランドセントラル鉄道会社が、パリからクレルモンフェランを通ってニームへ向かう最短ルートの幹線として計画されました。さっそく起点のル・ピュイから工事が始まります。当時のフランスの鉄道は全部民間運営で、儲かりそうとあらば際限なく鉄道が作られた、いわゆる鉄道狂時代でした。

ところが、グランドセントラル鉄道は1859年にパリ・リヨン・地中海鉄道(PLM鉄道)に吸収合併されてしまいます。

PLM鉄道は独自にクレルモンフェラン・ニーム間をアレス経由で結ぶセヴェンヌ線を建設している最中で、セヴェンヌ線が1870年に先に開業します。普通に考えて自社線の建設を優先しますよね。

クレルモンフェラン・ニーム間の幹線となる目標を失ったトランセヴナール線は地域ローカル線として引き続き建設されますが、重要度が大きく下がってなかなか工事が進まなくなりました。

30年かかってやっと起点のル・ピュイから約60kmのラ・ルー峠まで工事が進みましたが、ここで第1次世界大戦で工事中止のお決まりのパターンにはまります。

全長90kmのうちラ・ルー峠以北約60kmはほとんど完成していたにもかかわらず、1937年に発足したフランス国鉄SNCFはこの路線の工事続行を断念してしまいます。

ついに1941年にトランセヴナール線は正式に放棄されることが決定しました。せめて完成していた北半分だけでも開業させればよかったのにと思いますが、全線まとめて放棄された理由はよく分かりません。

最初に着工してから90年、結局トランセヴナール線には一度も列車が走ることはありませんでした。

トランセヴナール線の予定線が描かれている地図
トランセヴナール線のループ線はラ・ルー峠の南側にあり、北側=山の上の方から工事が進められていました。

一般的にループ線は標高の低い側から建設していくことが多いのですが、ここは逆だったようです。標高の高い方に工事の痕跡が残っています。ただし、ほとんど完成していた峠以北と比べると着工したばかりだったのでしょうか、衛星写真ではほとんど見分けが付きません。

右下から山脈を2回トンネルで横切ってモンペザ駅、その後ダブルへアピン、
最後にループ線という超大規模計画でした。この区間だけで高低差200mを上っています
今でも現地の地元の人には列車が走らなかったことを惜しむ気持ちが強いらしく、未成線の割には路線図や線路配置図などが豊富に見つかります。また駅ができる予定だったモンペザの役場にはループ線の模型が飾ってあるそうです。

マニア的にも完成していればヨーロッパ最大規模となっていた二重ループ線は非常に惜しい存在です。

企業経済と戦争に屈した未成ループ線。 歴史にifは禁物ですが、グランドセントラル鉄道が吸収合併される前に完成までこぎつけていれば、今でもフランス中央高地を南北に結ぶ幹線の一つとして活躍していたかもしれません。


 ループ線付近は痕跡が少ないので路線図はほとんど推測になってしまいました。

  • おまけ~ 実は日本にも・・・

さらにもう一か所。未成ループ線と言えば実は日本にもあります。奈良県の五新線立川渡トンネルです。

ここは奈良県の五条と和歌山県の新宮を結ぶ吉野杉の運搬用路線として計画され、戦時中の1939年から建設が始まっています。戦後1957年に思い出したように工事が再開し、1970年代まで少しずつ工事が進行していましたが、国鉄の累積赤字が問題となった1982年に全線工事凍結されてしまいました。

この路線の途中に立川渡トンネルというところが高低差50mのループトンネルになる予定でした。

立川渡トンネル前後の路盤は完成していましたが、肝心のループトンネルだけが未着工で、残念ながらループ線自体の痕跡はまったくありません。難易度の高いループトンネルは後回しにしたのでしょうか。詳しくは→こちら


ディープなループ線マニアの世界、次回もおそらく世界でも知っている人が1万人いるかいないかの超マニアックな未成・短命ループ線をご紹介します。