2017/07/23

欧州㉕フロム鉄道 世界最北のループ線が持つもう一つの世界一

  • あくまで脇役だったループ線
今回は北欧ノルウェーのループ線をご紹介します。

ノルウェーでは首都オスロから十字に幹線鉄道が走っています。そのうち西へ向かうのがベルゲン鉄道です。フロム鉄道はベルゲン鉄道の途中のミュルダール駅から分岐してソグネフィヨルドのそばのフロム駅までを結んでいます。

ノルウェー語のFlåmsbana,Bergensbanaをそのまま和訳してフロム鉄道、ベルゲン鉄道としている旅行ガイド等があって、私鉄の路線のように思えますが、どちらもノルウェー国鉄の一路線です。フロム線、ベルゲン線と書いた方がニュアンス的には実態に近いと思うのですが、公式ページ(→こちら)もフロム鉄道となっているので、当ブログの表記はそれに従っています。ゴッタルドバーンでもそうでしたが、このゲルマン語系のバーンという単語は和訳する時に混乱しやすいですね。

ミュルダールとベルゲンの間は標高1230mのフィンセ峠があります
フロム鉄道はベルゲン鉄道からソグネフィヨルドまでの接続線として計画され、1924年から工事が始まりました。かなりの難工事だったようで、開業したのは第二次大戦中の1941年です。

もともとフィヨルドが発達したノルウェー海岸部は大量輸送と言えば船舶による水運でした。フロム線はソグネフィヨルドの沿岸とオスロを結ぶという観点でルート選定されており、特にフロムの町に何かがあったわけではありません。極論すれば目的地はフロムでなくてもよかったということになります。

フロムの町は現在でも人口350人で、鉄道の開通によって港湾が劇的に発展した形跡もありません。その成り立ちから言って、フロム鉄道はあくまでベルゲン鉄道と水運の補助役でした。

ミュルダール駅の遠景。左奥の傾いたトンネルがフロム鉄道です。
写真はオスロ行の特急列車。こちらからお借りしました

それでも通年通行可能な輸送機関によってフィヨルド沿岸と主要都市が結ばれたのは大きく、旅客列車と貨物列車が1日2往復ずつ走り出しました。

1945年には電化が完成し、電気機関車の牽引に置きかえられます。鉄道は観光需要を掘り起こし、1970年代までは輸送量は右肩上がりだったそうです。

ところが1980年代に入ると観光需要が頭打ちになります。フェリーと接続してフィヨルド沿岸の町への郵便や日用品の物流に使用されていた貨物輸送も徐々に整備された道路輸送に置き換えられて行き、フロム鉄道は経営的にピンチを迎えます。ちょうど電気機関車などの車両が更新時期にさしかかっていたのも大きな負担でした。

この時ノルウェー国鉄はフロム鉄道を観光資源としてPR強化することで乗り切りました。同時にそれまで全国一律だった鉄道料金に割増運賃を設定したのも大きかったようです。現在では年間70万人の観光客を運ぶノルウェーの国家的観光スポットになっています。

  • 氷河地形に真っ向勝負で挑む
さて、フロム鉄道は海抜0mのフロムの町と海抜866mのミュルダール駅間を約20kmで結んでおり、最急勾配55‰、標準勾配28‰のハードな登山鉄道です。

特にU字谷の最奥部にあたるミュルダール駅近辺は四方が切り立った崖にへばりつくルートで、高度を稼ぐために相当苦心した様子がうかがえます。

もともと鉄道が苦手とする氷河地形のU字谷に、正面から挑んだなんともアツい鉄道です。最終的には通常の粘着鉄道となりましたが、当然ラック式も検討したようです。トンネルはほとんど手掘りだそうです。

ループ線の構造も思い切り特殊で、狭い土地にヘアピンターンを5ヶ所無理にはめ込むために、やむなく線路を交差した感じになっています。乗っているだけではループ線と気が付きにくい線形かもしれません。

勾配は上にも書いた通り55‰、曲線半径は130m、高低差はこの区間だけで100mです。最高速度は上りミュルダール行き40km/h、下りフロム行き30km/hで、時刻表をよく見ると下り列車の方が上り列車よりも少しずつ所要時間が長くなっています。

フロム鉄道は世界最高緯度、つまり世界最北のループ線でもあります。

アラスカ鉄道ザ・ループの方が北にあるイメージが個人的にありましたが、調べてみるとぎりぎりフロム鉄道の方が北でした(アラスカ鉄道ザ・ループ:北緯60度39分35秒、フロム鉄道:北緯60度44分36秒)。

北緯60度を超える地域では鉄道路線自体が希少ですが、その中でもループ線の存在はひときわ目立ちます。ちなみにシベリア鉄道の本線は最北部でも北緯58度で、北緯60度を超えるところは走っていません。


  • 値段なりの価値があればそれでいい

現在フロム鉄道は夏季は日中ほぼ毎時1本ずつ1日10往復、冬季は1日4往復の列車が運行されています。以前はオスロから直通の夜行列車が走っていましたが、現在はすべてミュルダール・フロム間の線内往復列車です。

料金はミュルダール・フロム間20km約1時間で片道360クローネ=4800円、往復480クローネ=6300円とかなり割高です。というかこれは世界的に見ても相当高い鉄道運賃だと思います。

ヴァトナハルセン駅。駅に隣接してホテルがあります。
一応ユーレイルパス所持者向けに30%の割引がありますが、逆に言うとユーレイルパスを持っていても別料金を払わなければ乗れないということです。単位乗車時間あたりの料金は日本の新幹線並みのハイリッチな鉄道です。

一般鉄道のループ線としては世界最高の運賃設定だと思います。ちょっと調べきれませんでしたが、観光鉄道を含めてもおそらく世界最高額ではないでしょうか。フィヨルド観光用にバスやフェリーとセットになった周遊券も発売されていますが、日本円で30,000円近い価格設定となっており、正直得なのかどうか判断しづらいです。少なくとも安くはないです。

それでもフロム鉄道はノルウェー観光のド定番コースとなっていて、日本人の旅行記もWEB上に多数見つかりますが、値段が高いという指摘はほとんどありません。現時点で不満が出ていないということは値段なりの価値は認められているということでしょう。

ノルウェーの鉄道路線はフロム鉄道に限らず、海と森と山のコントラストの中を走る風光明媚な路線が多く、一度ゆっくり訪れてみたいところです。







次回は韓国のループ線をご紹介します。

2017/07/12

中国⑪浜州線興安嶺ループ 20世紀を駆け抜けた多国籍ループ線


  • その時歴史は動いた

今回は中国東北部、旧満州にあったループ線をご紹介します。

中国領土内にロシアが鉄道を建設した経緯は大変複雑です。このあたりは専門外なのでごく大雑把にまとめると、日清戦争終了後に日本が遼東半島を中国から割譲されましたが(1894年下関条約)、ロシア・フランス・ドイツの三国がこれに介入し、日本は遼東半島の獲得を断念します(1895年三国干渉)。

遼東半島獲得断念の見返りに清朝はロシアに対して満州の鉄道敷設権を与えます(1896年露清密約)。この鉄道敷設権に基づいて、中露国境の満州里から満州を斜めに横切ってウラジオストクの北東の綏芬河まで、全長1500kmの東清鉄道(East China Railway)が建設されました。

1898年から工事が始まり、1904年に開通しています。地図で見るとシベリアの中心都市の一つチタからウラジオストクに向けて、一直線に線路を引いたのがよく分かります。

実はこの鉄道敷設権というのが曲者でした。取り決めにより、鉄道用地が実質ロシア領になったに等しかったのはまだ理解できますが、それに加えて鉄道関係者の生活に必要な土地もすべて鉄道用地と拡大解釈されていきます。

鉄道車両の車庫用地はもとより駅や鉄道関係者の住宅・学校・病院・商店、関係者居住域の警察や軍隊、はては鉄道燃料用の鉱山までなんでもかんでも鉄道用地扱いされ、結局駅や鉱山のある町はまるごとロシア領になったようなものでした。

実態は植民地化されたのと何も変わりません。このような実質植民地の鉄道用地は鉄道附属地と呼ばれ、ロシアをまねて各国が清朝領内に続々と鉄道敷設権を獲得して鉄道附属地が広がって行ってしまいました。詳しくは→こちら

これにはさすがに住民の不満が高まり、義和団の乱(1900年)から辛亥革命(1911年)へと進んでいき、中国の王朝政治の終焉を見ることになります。また、日本ではこの時のロシアの狡猾な立ち回りが不信感を呼び、日露戦争(1904年)の原因の一つとなります。

このように東清鉄道はいろいろ国際政治に波紋を起こすものでした。振り返って見ると三国干渉に基づく鉄道敷設権付与は日露戦争から第二次大戦までの要因にもなっています。

  • ロシア人が作り、日本人が育て、中国人が使う
ロシア時代の線路図
点線は工事中の仮線で3段スィッチバックでした。
本線完成後は撤去されたそうです
ところで満州の地形はおおむね平らな平原なのですが、中央部に大興安嶺山脈が横たわっています。

この山脈よりもロシア側は標高600m程度、中国側は標高200mと高低差がありました。東清鉄道は満州里(チタ)側と綏芬河(ウラジオストク)側の両方から建設が進みましたが、最後まで残ったのがこの大興安嶺を超える部分でした。

東清鉄道はこの興安嶺山脈の高低差を全長3100mの興安嶺トンネルとループ線で越えました。これが興安嶺ループ線です。ロシア語では土木技術者の名前を取ってボチャロフ・スパイラルと呼ばれていました。

開通時のループ線の様子。これは絵でしょうか。
ちょっと山と線路のバランスがおかしいように見えます
こちらからお借りしました
曲線半径は320メートル、高低差は100m、勾配は約15‰です。開通当初はロシア規格の1520mmゲージで建設されています。

このロシア製ループ線は1904年の開通後も数奇な運命をたどります。開通してすぐに日露戦争が勃発し、ロシアが敗北します。

ハルビンから長春を通って大連・旅順へ向かう南満州支線はこの時ロシアから日本に譲渡されて南満州鉄道、通称満鉄となりますが、この満州里~綏芬河間の路線はロシアの鉄道として残り、北満鉄道と呼ばれることになります。

ループの交差部
警備兵用のトーチカが残されているのがロシア製の名残です。
この際、鉄道附属地も管理権ごと満鉄に譲渡されたため、実質日本の植民地となりました。この時代の歴史でよく出てくる関東軍とは、もともと満鉄の鉄道附属地の守備隊です。鉄道会社の社員が行政権を握った町がいくつもあったという不思議な時代でした。

その状態で30年ほど経過し、ロシアがソヴィエト連邦になり、清が中華民国となった1931年に満州事変が勃発し満州帝国が成立すると、1935年北満鉄道はロシアから満州帝国に有償譲渡されて満州国鉄になります。ちなみにこの時の有償譲渡の交渉にあたったのは杉原千畝だったそうです。

現在のループ線の様子
交差部の上部は新南溝信号場で行き違い設備があったようです
 
わざわざ勾配上に行き違い線を作った理由は分かりません。不思議です
1937年には満鉄に合わせて標準軌に改軌します。急激に改軌したため、標準軌用の機関車と貨車が極端に不足する事態となったそうです。

有償譲渡されてから第二次大戦終戦までは日本人経営の満州国鉄の路線だったのですが、終戦後はソ連と中国(国民党政府の中華民国)の共同経営路線となります。

最終的に中華人民共和国成立によりソ連は満州鉄道経営から手を引き、1952年に完全に中国国鉄の運営となりました。

この興安嶺ループはロシア人運営の東清鉄道、日本人運営の満州国鉄、中国人運営の中国国鉄と3つの異なる民族により運営されたことになります。このように相互乗り入れではなくて三カ国の列車が走ったのは世界のループ線の中でここだけです。


  • マニアだけが知るその価値とは

さて、この興安嶺ループ、非常に国際政治に影響を与え、国際政治の影響を受けたループ線だったのは上述のとおりなのですが、ループ線としても超一級のものでした。

こちらは中国時代の線路図
残念ながら満鉄時代のものは軍事機密だったからか
敗戦時に散逸したのか見つかりません

写真で分かる通り、興安嶺ループは地平から築堤で人工的に高度を上げていく非常に珍しいオープンループでした。スイス・ベルニナ線のブルージオと同じ成り立ちで見た目もよく似ていますが、幹線用の高規格で比較にならないほど大規模なものでした。

ループ線の途中には新南溝信号場があり、行き違いができるようにもなっていました。また、自線と交差した後も円の外周に沿ってさらに半回転する1回転半ループだったのもポイントです。

東洋のブルージオと言える素晴らしい形状で、知名度が少ないのは不当だとも言えるほどです。

むしろ興安嶺ループの方が規模も大きく開通も早いので、ブルージオの方を「スイスの興安嶺」と呼ぶべきだったかもしれません。


  • 大地にたたずむ歴史の生き証人

興安嶺ループは中国国鉄として戦後も満州開発、中ソ国際輸送を支えていましたが、中国の鉄道近代化施策の一環で2007年に160km対応の新線に切り替えられ、残念ながら廃止されました。





旧線となったループ線は、興安嶺トンネルや博克図機関庫とともに内モンゴルの文物保護単位(日本でいう重要文化財)に指定されています。

観光鉄道を走らせる計画もあったようですが、今のところ具体的な動きはありません。一応線路も含めて構造物は一通り残されています。




ある意味世界史をも動かした偉大なループ線の遺構は、現在は満州の地でひっそりと余生をすごしています。

次回は北欧のループ線をご紹介します。

2017/07/03

アフリカ④南アフリカ・ヴァンレーネン峠 希少なスイッチバックからの改修ループ線

  • 欧州人同士の激しい領土争奪戦
今回は南アフリカ共和国の東部にあるループ線をご紹介します。

南アフリカはアフリカでは最も気候が温暖で、早くからヨーロッパ人の入植が進みました。最初に喜望峰の近くに町を作ったのは1700年ごろオランダ人でしたが、1800年代初頭にイギリス人が進出してケープタウンはイギリス領となりました。この時既に入植してから数世代経過していたオランダ系の住民は、イギリス人に支配されることを嫌って集団移住(グレート・トレック)でアフリカ大陸を北上していきます。

オランダ系の住民はインド洋沿岸の港町ダーバンを中心にナタール共和国を建国しますが、ここはすぐに占領されてイギリス領になってしまいます。

オランダ系住民はさらに北の内陸部に向かって移動し、1850年代の中ごろにオレンジ自由国と現在のヨハネスブルグ一帯のトランスバール共和国を建国します。簡単に言うと原住民そっちのけのオランダとイギリスの領土の取り合いですね。

オランダ系の住民は黒人奴隷を使いながら農牧で地道に暮らしていたのですが、1886年にヨハネスブルグで金鉱が発見されます。すると一気にヒートアップ、有象無象の集まるゴールド・ラッシュがここでも発生します。同時に再びイギリスがオランダ系住民の領土を侵略してくることになります。鉄道が建設されたのもこの金鉱の積み出し用でした。

ところで、南アフリカの東海岸にはドラケンスバーグ山脈という南北約1000㎞にわたる山脈が横たわっており、内陸部へ向かうにはどこかで山脈を越えなければいけません。

現在のヴァンレーネン駅の風景。北海道っぽいです。
ダーバンからヨハネスブルグに向けて、ドラケンスバーグ山脈を越える鉄道が2つのルートで建設されました。そのうちの南側のルート、レソト国境に近い方を通るのが今回ご紹介するヴァンレーネン峠です。

峠と言っても極端な片勾配で、峠の東側は断崖絶壁ですが、西側は国境を越えてナミビアまでほとんど高低差のない標高1600mぐらいの台地になっています。強烈な上り坂はあるが下り坂はほとんどないという変わった地形になっており、英語では"大断崖"Great Escarpmentと呼ばれています。

  • スィッチバックがループ線に大変身
ヴァンレーネン峠の鉄道はナタール政府鉄道Natal Government Railwayによって1892年に開業しました。軌間はケープゲージと呼ばれた日本と同じ1067mmゲージです。

レディースミスから分岐して北西へ行くとヴァンレーネン峠です。
この地図ではまだ三段スィッチバックになっています。
峠の頂上部にヴァンレーネン村ができていましたが、ここまでがナタール植民地=イギリス領でした。峠の西側はオランダ系のオレンジ自由国領だったのですが、国境から先も終点のハリースミスまでナタール政府鉄道が建設しています。敵対している国の領土内まで鉄道を建設してしまうとはイギリス人は大胆ですよね。

ヴァンレーネンは一帯の地主さんの名前で、それがそのまま峠の名称になっています。ちなみにここまで出てきたダーバン、ハリースミス、レディスミス、ヨハネスブルグなどの南アフリカの都市名も、もとは人名だそうです。

三段スィッチバック時代の峠の風景
こちらからお借りしました
当初はトンネル掘削技術がなかったため、標高1700mの峠を3段スィッチバックで越えるルートが採用されました。

このスィッチバックによる峠越え路線は大変見晴らしが良く、一躍遠くヨーロッパまで伝わる鉄道名所となりました。

ところが蒸気機関車での鉱石輸送と逆転運転を伴うスィッチバックとの相性が非常に悪く、輸送量が増えるにつれて使いづらくなっていきます。

1902年のイギリスとオランダ系住民の間で勃発した第二次ボーア戦争の結果、オレンジ自由国・トランスバール共和国両国が実質的にイギリス領に併合されて国際路線ではなくなり、輸送需要も激増していました。

結局、1925年に第一スィッチバックと第三スィッチバックをトンネルで直結し、逆転運転の必要がないように改修されました。三段スィッチバック時代はここに終焉を迎えます。

これも三段スィッチバック時代。
おそらく三段目の写真だと思います。
しかし、この直結トンネルは急曲線かつ33‰の急勾配となり、蒸気機関車にはあまりに過酷でした。最終的には、1963年の電化工事に合わせて延長16㎞、20‰勾配の新線に抜本的に付け替えられました。これが現在のヴァンレーネン峠のループ線です。実はかなり新しいループ線です。曲線半径は280mとそこそこですが、重量鉱石輸送用に強化軌道が敷かれていました。

スィッチバック時代よりもトンネルが増えましたが、依然としてアフリカの大平原を見下ろす絶好の車窓区間となっています。また、旧線はほぼ全区間が道路に転用されています。You Tube に旧線の動画がありました →こちら

付け替え後の新線の風景。軌道状態も良好のようです。
こちらからお借りしました

ループ線マニア的には、やはり「スィッチバックからループ線に付け替えられた」という点が注目ポイントでしょう。

スィッチバックからループ線に付け替えれたのは、世界でここだけ!と言いたかったのですが、2012年に韓国の嶺東線のスィッチバックがソラントンネルのループ線に付替えられており、現在では該当箇所は2ヶ所になっています。ちょっとだけレア度が下がってしまっています。


  • 豪華列車で越えてみたい
現在ヴァンレーネン峠を走る旅客列車はシーズン中に週1往復運転されています。季節が日本と逆ですので2017年6月現在はシーズンオフで運休中です。ショショローザ・メイル社という南アフリカ鉄道公社の子会社が運行している列車で、こちらのページでチェックできます。

ところが2016年シーズンは、残念ながら上下便とも夜間にヴァンレーネン峠を通過するダイヤになっていてループ線見物には使えないものでした。2017年シーズンはどうなるでしょうか。注目です。
※2017年シーズンでは列車自体がなかったことになっています。廃止されちゃったんでしょうか?2017.10.1追記

また、クルーズトレイン専門の鉄道会社ロヴォスレール社のツアーの中に、ヴァンレーネン峠を通るものがいくつかあります。これは最近日本でも走り出した「ななつぼし」や「四季島」といったクルーズトレインのモデルとなった豪華列車ツアーで、南アフリカでは戦前からこのようなクルーズトレインが存在していました。公式ページは→こちら。ちょっと乗ってみたくなりますね。チャーターもできますので、お金さえ払えば確実に豪華列車でループ線を通過できそうです。

南アフリカ、特にヨハネスブルグと言えば世界最悪といわれる治安の悪い都市というイメージがありますが、列車に乗っている限りは安全だそうです。



今回の地図はルートの変遷が分かるように、チェックボックスで年代別に切り替えられるようにしてみました。

次回は中国のループ線をご紹介します。

2017/06/25

北米④アラスカ鉄道ザ・ループ ループ線が廃止になった前代未聞の理由とは

  • アメリカ最後のフロンティア、それがアラスカ
前回に引き続いてアメリカ合衆国内からアラスカのループ線をご紹介します。

アラスカがアメリカ領になったのは1867年で、割と最近のことです。

当時広大なアラスカはほとんど無人地帯でしたが、1900年ごろ金鉱が見つかり、山師が大量に押しかけてアラスカの町はおおいに賑わったそうです。

それでも1912年のアラスカの人口が58000人だったと言います。「58万人か、面積を考えるとちょっと鉄道輸送には人口が足りないかな」とか思っていたら、さらに一桁少ない5万8千人でした。これではとても鉄道輸送が成り立つ規模ではありません。

実際アラスカの南岸の港町シューワードを起点とする初代アラスカ鉄道は、1903年の開業からわずか6年で倒産しています。その後もいくつかの民間会社が内陸に向けて少しずつ路線を建設しては倒産するということを繰り返します。

鉄道は民間資本で建設されるのが原則だったアメリカですが、ここアラスカでは一般の民間企業が鉄道経営を行うのは経済的に無理だったようです。

1920年代になるとアメリカ連邦政府が民間会社を買収して、例外中の例外で直轄での鉄道運営に乗り出しました。現在は州政府が保有しているので国営鉄道ではなくて公営鉄道となっています。

アメリカ連邦政府が原則から外れてまでアラスカに鉄道を建設したのは、アラスカ内陸部の豊富な鉱物と木材の輸送と、冬の間の交通路確保の意味合いが強かったようです。

ゴールドラッシュ自体は10年ほどで鎮静化します。採掘管理が厳しくなり、誰でも一攫千金というわけにはいかなくなったのが原因です。金が採れなくなったわけではなく、採掘は今も続いています。

そんなアラスカの大地にあるループ線は1909年にシューワード・ウィッティアー間に作られました。氷河地形独特のU字谷の縁を越える位置にあり、全長5km、高低差約80m、最急勾配22‰、曲線半径160mと規模もスペックもごくごく普通のループ線でした。

1952年に新線に切り替えられるまで夏のアラスカの鉄道名所としてアメリカの主要都市でさかんに宣伝され、ループ線は"The Loop"、ループ線の前後の区間は"The Loop District"と地名のごとく呼ばれた全米で有名な鉄道名所でした。

個人的には、この "The Loop"というアメリカ的な豪快な名称がツボなんですが、単にこの周辺の人口が希薄すぎて地名がなかったようです。ちなみに周辺の山、川、町等の名称はほとんどゆかりのある人名に由来したものだそうです。

  • 驚きのループ線廃止の理由とは・・・
このループ線は氷河をまたぐ巨大な木造の橋とトンネルで有名でした。氷河そのものをまたぐ鉄道はおそらく世界でここだけだったでしょう。しかし、この巨大木造橋とトンネルにはメンテナンスにとんでもなく手間とコストがかかるものでした。

文字通り掃いて捨てるほどあるアラスカ産木材を使った
巨大な橋が氷河をまたいでいました
零下40度にもなるアラスカでは、トンネル内や橋梁上の線路がすぐ凍結してしまうため、冬の間は線路際の小屋で薪をたいて四六時中暖め続けるという気の遠くなるような手間のかかる保守をしていたそうです。

結局1952年にトンネルと橋を通らない新線が建設され、ループ線は廃止されました。

ところが、この新線、よく見るとかなり違和感があります。

長大トンネルを作ったわけでもないし、急カーブを解消したわけでもないし、少しルートを変えただけで似たような場所を通っており、勾配緩和にもなっていません。

最初からトンネルと橋のないルートで線路を引けば良かったのでは?なぜ当初わざわざメンテナンスに手間のかかるループ線を建設したのか、とずっと謎に思っていました。

新旧路線図。点線が旧線です。

このループ線地帯の中央部を流れるブレイザー川は1930年ごろまでバートレット氷河という氷河の一部で、アラスカ鉄道の木造の橋は文字通り氷の上に建設されていたのは前述の通りです。ところが調べていくと、温暖化のせいで1940年の後半には鉄道の路盤に影響がないところまで氷河が後退してしまったとありました。

こちらからお借りしました。貴重な現役時代のカラー写真です
そうなると氷河を避けるために作られた木造の橋とトンネルは無用の長物、ただのメンテコストの金食い虫に成り下がってしまいます。

もはや氷河の再前進が起こることはない、と専門家に判定されたことを受けて、冬季におそろしくメンテの手間のかかっていた木造橋とトンネルを廃止して、ヘアピンターン一か所だけのシンプルな新線に付替えられたのでした。


ループ線が廃止される場合の理由は、おおむね「輸送需要の減少」か「勾配をバイパスする新線の建設」のどちらかですが、ここは「地形が変わってループする必要が無くなった」のが廃止理由です。これは世界のループ線の中でも唯一無二の存在で、マニアとしては見逃せません。


  • 冬の鉄道の安心感は異常
アラスカでは今でも道路の通じていない町があり、道路があっても厳寒の極低温期には車が使いにくいため比較的鉄道輸送のシェアが高いのが特徴です。冬季の自動車輸送は、雪と氷で走りにくいのもありますが、ガス欠や故障イコール凍死なので移動手段として危険すぎるそうです。

現在のアラスカ鉄道→公式HPは観光鉄道のような雰囲気に見えますが、厳冬期でも数は減りますが旅客輸送が休止されることはありません。

この区間を通過する旅客列車は夏季は毎日2往復運転されています。

アンカレッジ発のCoastal Classic Train と Glacier Discovery Trainの2列車が旧ループ区間を通過しています。

名物だった木造橋はすでに残っていませんが、今でも車内から氷河を遠くに見ることができます。

  • おまけ~世界最長の併用トンネル
アラスカ西部の不凍港のウィッティアーへ行く路線に、アントン・アンダーソン・メモリアルトンネルという全長4kmのトンネルがあります。これがなかなかの鉄道名所で、世界最長の鉄道道路併用トンネルです。

 このトンネルは零下40度、風速70m/秒になる冬場の気候に耐えられるように設計されているとのことですが、鉄道と道路の共用で車道は一車線分しかありません。

当然、車は一方通行で、1時間に1回、15分間だけ車が通れるそうです。トンネルの両側に大きな駐車場があり、通れるようになるまで駐車場で待ちます。夏場のシーズンなどは2時間待ちぐらいになったりするそうです。

なお、トンネルの通行は鉄道優先で、列車が通過する場合は車の方があらかじめ通行止めになるそうです。

通行料は13ドルと結構高いですね。こちらに詳しく出ています →アラスカ政府公式ページ



なかなかアラスカは鉄道マニア的にも面白そうな場所が点在していますね。





次回はアフリカの絶景ループ線をご紹介します。




2017/05/29

北米③テハチャピ峠 フロンティアスピリッツあふれる全米NO1ループ線

  • ロスからサンフランシスコへ続くフリーウェイを…

今回は北米からアメリカの超有名なテハチャピループをご紹介します。北米のループ線をご紹介するのはカナダのニューファンドランド島トリニティループをご紹介して以来です。合衆国国内のループ線は初めてになります。

テハチャピループはロサンゼルスからサンフランシスコに向かう途中にあるループ線です。

こちらからお借りしました →Pinterest
もともとロサンゼルスからサンフランシスコに向かう鉄道路線は主に2つのルートが作られました。

海岸沿い北上してサンホセを経由するルートと、先にシェラネバダ山脈を越えてベイカーズフィールドからサンホアキンバレーを北上するルートです。

このうち海岸ルートは海沿いの断崖絶壁と山脈を越える勾配で重量貨物輸送には不向きだったため、ロサンゼルスから一旦モハーヴェ砂漠を通ってサンホアキンバレーに抜ける山側のルートが重宝されました。

このモハーヴェ砂漠とサンホアキンバレーの間のシェラネヴァダ山脈を越えるところに建設されたのがテハチャピループです。

テハチャピループの開通は1876年で、サンフランシスコからロサンゼルスに向かって南向きに建設されました。この時代、北米大陸横断鉄道の終着点はサンフランシスコ(正確には少し内陸のサクラメント)で、そこから西海岸沿いに路線が延伸していった形でした。この区間は当時のサザンパシフィック鉄道が開通させています。ループ線としては1882年開通のゴッダルドバーンよりも早い世界最古のループ線の一つです。

ロサンゼルスは背後の山を越えるとすぐ広大なモハーヴェ砂漠で、この時代は山越えよりも砂漠越えの方が難易度が高かったのでしょう。

ループ線の勾配は22‰、曲線半径は直径1210フィートと資料にあり、これを換算すると半径184mになりますが、衛星写真で測ってみるとそんなにありませんでした。おそらく半径175mだと思います。

ベーカーズフィールドから南に向かって上り坂で、ループ線の南西にあるテハチャピの町が最高点です。ベーカーズフィールド・テハチャピ間は直線距離約40kmで高低差約1000mを上るかなりの連続急勾配となっています。

  • 今も残る西部開拓時代の雰囲気

テハチャピループは、いかにもカリフォルニアという雄大な景観の中を、全長1.6kmにもなる超重量貨物列車が頻繁に走っており、全米の鉄道写真愛好家には絶大な知名度の撮影地となっています。

WEB上で見つかる写真の数ではブルージオを上回っているかもしれません。

また、テハチャピループは非常に変わった形状をしているところも見逃せません。ω型といいましょうか、ハート形といいましょうか、ループ線進入前と退出後に輪の外側をさらに半周ずつ回っています。このような形のループ線は世界でもここだけです。衛星写真で見るとタコのようにも見えます。

ここでは単線区間にもかかわらず1日20往復40本(通常時)の貨物列車が走る超高密度区間です。

「1日40本なんて大したことない」と感じるかもしれませんが、1本の列車が通過するのに5分以上かかる長大列車ばかりですので、実はこれはなかなかすごいことです。

ベイカーズフィールドとテハチャピの間には全部で10箇所の信号場があり、貨物列車の長さに合わせた有効長の信号場を選びながら運行しているそうです。とんでもない綱渡り運用ですね。

なお、テハチャピループのほとんどはワロング信号場の構内になっており、一見したところ複線のように見えます。

  • 狙えば乗れないこともないと言われると乗りたくなるのがマニア

現在、テハチャピ峠では各信号場の有効長拡大と信号所間の複線化工事を随所で行っています。これだけの輸送を担っている重要区間ですのでこれでも今さら感がありますが、なぜ全区間複線化という話にならないのかちょっと不思議です。このあたりの土地代はただ同然ですしね。ちょっと投資に慎重すぎるような気もします。

黄色の単線区間が現在複線化工事中
実はアメリカでは19世紀の鉄道黎明期から現在に至るまで、戦争中を除いて国営鉄道が存在したことがありません。テハチャピループも開通当初からずっと私鉄の一路線です。

大部分の国で国土交通政策の一つとして計画建設される鉄道路線が、アメリカではずっと私企業の営利目的で建設されていたのはちょっと興味深いです。

これには功罪両面があると思いますが、儲かるところに複数社が路線が競合して運賃安売り競争の末共倒れしたり、儲からないところは速攻で廃線になったりすることや、建設費圧縮と早期利権確保を狙って粗雑な設備でとりあえず開通し、その結果事故が多発すること、利幅の少ない鉄道旅客輸送が早々に見捨てられたことなどは明らかに負の側面です。

現在ではおおむね日本のJRのような地域路線保有会社に運行会社の車両が乗り入れる運営形態で安定しているようですが、世界的に流行している高速鉄道がアメリカでなかなか具体化しないのは今も続く民間優先思想の弊害でしょう。

このテハチャピループでは残念ながら現在定期の旅客列車はありません。ベーカーズフィールド以北はサンフランシスコまで旅客列車が毎日走っているのですが、ベーカーズフィールド・ロサンゼルス間はバス連絡となっています。

ところが、ロサンゼルス~シアトル間を結ぶコーストスターライト号という特急列車が、海岸線の工事運休期間中テハチャピ経由で迂回運転をすることがあります。

最近では2017年2月5日~2月21日の間、テハチャピループ経由で運転されていました。その前が2012年、さらにその前が2008年だったそうなので、だいたい5年に1回ぐらい迂回運転があるようです。次は2021年~22年ごろでしょうか。実際の乗車記がありました。→こちら

You Tube に動画もありました。







次回は北米大陸からもう1ヵ所、前代未聞のループ線をご紹介します。