2017/10/10

欧州㉖フランス ソンポール峠線セイエルストンネル もうすぐ復活!?悲運の事故廃止ループ


  • ピレネーの巡礼街道を行く国際ローカル線

今回はフランスとスペインの国境地帯ピレネー山脈の廃線ループ線をご紹介します。

ソンポール峠の路線図
現在ベドゥ―~カンフラン間33.2kmは列車が走っていません
フランスとスペインの国境を越える鉄道路線は4ヵ所作られました。大西洋線(仏:アンダイエ~西:イルン1864年)、地中海線(仏:セルベール~西:ポルトボウ1878年)、ピレネー東線(仏:ラトゥールカロル~西:プッチサルダ―1929年)と今回ご紹介するソンポール峠線(仏:ルフォール・ジュ・ダベル~西:カンフラン1928年)の4ヵ所です。

なお、2013年地中海線に標準軌の高速新線が開通し、フランスからTGVの直通列車の運転が始まりました。これを含めると仏西間の国際鉄道路線は現在5ヶ所となっています。

スペイン国内はイベリアンゲージと呼ばれる1668mmの広軌、フランス国内は標準軌です。鉄道創設期にフランスからの侵略を恐れたスペイン側がわざとフランスとは異なるゲージを採用したと伝えられています。スペインは大航海時代に覇権を築いた当時の列強の一画で、仏西間の国際鉄道は思ったよりもずっと早い1860年代から幹線として活躍していました。


  • 国境を越える線路にあった決まり事

仏西間の国際鉄道はちょっと面白い運転形態を取っていました。フランスの列車は国境を越えたスペインの最初の駅まで運転して、乗客も荷物も全部降ろした後、空車回送でフランス最後の駅まで戻ります。スペインの列車も同様に、フランスの最初の駅まで行って回送で一駅戻っていました。

ですので、国境を越える部分はどこも広軌と標準軌の線路が別々に引かれた単線並列の形になっています。現在ではフリーゲージトレインを使った直通特急も走っています。

ところが、このソンポール峠だけは原則と異なり、スペイン国内のカンフラン駅で双方が折り返す形となっています。国境にある全長7800mのソンポールトンネルが標準軌規格で、スペインの広軌の車両が通れなかったためです。さすがにこの長大トンネルを両国の規格で1本ずつ掘るのは経済的に無駄が多く、三線軌条にするには軌間差が少なすぎたということなのでしょう。

ただし、ソンポールトンネルのフランス側に、ル・フォール・ジュダベルという信号場がありますが、信号場~国境間と国境~カンフラン駅間がぴったり同じ距離であることから見ると、原則通りお互いに国境を越えて一駅間だけ乗り入れる形態を検討していたのではないかと思います。

このル・フォール・ジュダベル信号場跡は現在は周囲に何もない不思議な空間ですが、カンフラン駅のような国際連絡駅を作る意図があったとすれば納得です。なお、この信号場は開通早々に休止されたようです。ひょっとすると当初から信号場としては機能していなかったのかもしれません。

このソンポール峠線は1907年のフランススペイン間の合意で建設が始まり、1912年には国境のソンポールトンネルも開通していました。ところが第一次世界大戦のゴタゴタに巻き込まれて、実際に列車の運行が始まるのは16年も後の1928年になってからでした。

もともとこのソンポール峠への通り道アスプ谷は、エル・カミーノと呼ばれるカトリック教徒の巡礼路で、古くから敬虔なクリスチャンが多数行き交う街道でした。日本のお遍路道のようなものでしょうか。→くわしくはこちら 

わざわざこんな険しい谷に鉄道を敷設しなくても、というのはよそ者の考えなのでしょう。この峠を越えること自体に意味があったようです。

ソンポール峠線は、最急勾配43‰のハードな急勾配を克服するべく最初から電化路線として開業しました。ループ線はフランス側の最後の駅、ユルドス駅と谷の最奥部ル・フォール・ダルジュ信号場の間に作られています。

ループ線部分の大半が全長1792mのセイエルス・ループトンネルになっていて眺望は効きませんが、トンネルを抜けて断崖の上に出てきた時に谷を一望できました。トンネル内の勾配は34‰、曲線半径は270m~300m、標高差はループ線部分だけで70mとかなり大型のループ線で、急勾配であることを除けば国際路線にふさわしい立派な規格の路線でした。

  • 悲劇は突然に

ループ線から谷を一望できたようです
こちらからお借りしました。(他にも貴重な写真多数あり)
1970年の早春、峠をカンフランに向かっていた貨物列車が駅の手前で坂を登れなくなってしまいました。

この日は貨物が多く、おまけに機関車の調子が良くなかったため、機関車に備え付けられていた砂撒き装置の砂も全部使いきっていました。

機関士と助手は止まってしまった機関車から下りて、線路の回りの砂を車輪の下にまいていました。

ところが、調子が良くなかったのは実は機関車ではなく変電所の方でした。機関車の出力が上がらなかったのは架線電圧降下を起こしていたためで、停車中に電圧がゼロになって停電してしまいます。

勾配の途中で立ち往生した貨物列車は徐々にブレーキ圧が抜けていき、ついに列車の自重で逆走し始めてしまいました。こうなると機関士たちにできることは何もありません。トウモロコシを満載した貨物列車は5km逆走して時速100㎞を越えるスピードでエスタンゲ鉄橋に激突し、大破してしまいました。

幸いけが人は出ませんでしたが、フランス国鉄SNCFは多額の費用がかかるからと早々に復旧を諦めてしまいます。ソンポール線のベドゥ~カンフラン間はあっさり廃止とされてしまいました。

災害で廃止になった鉄道路線は歴史上まで多数存在しています。岩泉線とか高千穂鉄道など近年の日本でもいくつか実例があります。

ところがこれは災害ではなく事故で、しかも鉄道事業者の責任事故です。それなのに早々に復旧を放棄してしまうのはちょっと不可解な感じもします。もとからいずれは廃止したいという意向だったのでしょうか。フランス国鉄は妙に割り切りがいい時があります。かろうじて残ったベドゥまでの区間も1985年には需要減少を理由に廃止になっています。

いずれにしてもカンフラン線のループ線は今のところ世界唯一の「事故で廃止になったループ線」です。あまり褒められた称号ではありません。

ところが、近年環境配慮の機運の高まりで事態が変化します。2008年に平行する国道が地すべりで片側通行になり、とんでもない大渋滞を起こしたことから鉄道輸送が再評価されることになりました。廃線区間の線路や橋梁などが比較的よく残っていたこともあり、2016年に修復工事を経てベドゥまで旅客運転が復活しました。ただし電化は復元されませんでした。現在は1日5往復のディーゼルカーが走っています。

ソンポール峠線の復活運動はかなり盛り上がっており、地元自治体の資金援助も受けて2020年までにカンフランまでの全線を復活させると鼻息が荒いです。ループ線が華麗に復活するか、ここ数年が勝負どころです。


  • 山間の国境駅カンフラン

ついでですので、国境を越えたスペイン側の路線にも少し触れておきましょう。

上がフランス側、下がスペイン側です
ソンポール峠線の終点、カンフラン駅(スペイン語ではカンフランク駅)は山間に突如出現する巨大な国際駅で、壮麗な建物とフランスから列車が来なくなった絶妙の廃墟感で一部にカルトな人気スポットとなっています。映画の舞台にもなったそうです。

配線図を見るとスペイン規格の線路がフランスからの列車を包むような形になっています。一応ここからスペイン側は現役で、ハカまで1日2往復ディーゼルカーが走っており、列車で訪れることが可能です。

またこのカンフラン・ハカ線には途中に大きなダブルヘアピンがあります。立体交差していないのでループ線ではありませんが、サンホアン陸橋という特大の陸橋で高度を稼ぐなかなかの鉄道名所です。

ひなびた山間部の巨大な国際駅はインパクト絶大です
駅舎内部は現在鉄道博物館になっているそうです








次回はオーストラリアのループ線をご紹介します。

2017/09/30

欧州㉕ドイツ ヴータッハ・ヴァレー鉄道 観光列車として生き残ったミリタリーループ線


  • 国境沿いを行く"豚のしっぽ"

今回はドイツとスイスの国境沿いのヴータッハ・ヴァレー鉄道にある観光鉄道のループ線をご紹介します。

ヴータッハ・ヴァレー鉄道はドイツ語でヴータッハ・タール・バーンWutachtalbahnと書きます。本ブログでは英語表記のヴータッハ・ヴァレー鉄道と表記することにします。

また、このヴータッハ・ヴァレー鉄道の中間の観光鉄道の部分にはザウ・シュヴェンツレ鉄道という別名があり、ループ線はこの中間部分にあります。

ザウはドイツ語で雌豚、シュヴェンツレは尻尾です。地図上の線路の様子を例えたものなのですが、ザウもシュヴェンツレもあまり品の良い単語ではなく、侮蔑・罵倒のニュアンスがあると辞書で出てきます。もっとも、鉄道の名称に使うぐらいなので外国人が気にするほどのものではないのかもしれません。

ちょっと話がそれますが、これまでもたびたび出てきたドイツ語のBahnという単語は実は女性名詞だそうです。

ドイツ語は豚の雄雌で別の単語を使い分けますが、どうしてオス豚ではなくメス豚の尻尾なのかと思ったら実は鉄道という単語の性に引っ張られたようです。鉄道を意味する単語はフランス語・スペイン語では男性名詞、ドイツ語・イタリア語・ロシア語では女性名詞です。まるで一貫性がないのがすごいです。

さて、ヴータッハヴァレー鉄道はドイツとスイスの国境に沿って走っています。場所によってはスイス国境まで1㎞もありません。

この一帯はちょうどドナウ川とライン川の分水界になっている地域で、南側のライン川流域と北側のドナウ川流域では300m近い高低差があります。

ヴータッハ・ヴァレー鉄道は、高原になっているドナウ川流域から、深い谷底のライン川流域までの約20kmをループ線と4カ所のヘアピンターンで克服しています。


  • 眺めの良きは七難隠す

もともとこのヴータッハヴァレーに鉄道を敷設する計画は1860年代からありました。1870年代になってアルザス・ロレーヌ地方がドイツ領になると、ミュンヘン方面への石炭輸送需要が高まります。一般の物資輸送はスイス経由で行われていましたが、軍需品はスイス国内への持ち込みが禁止されていました。

そのためスイスを通らないドイツ領内で完結する独自の輸送ルートが必要となり、がぜんヴータッハ谷が注目されたのでした。途中の脆弱地形に苦労して工事が一旦挫折しかけていたところを最終的に軍部が強力に介入して1890年にヴータッハヴァレー鉄道を開通させています。


ヴータッハ・バレー鉄道はこのように100%軍事目的に作られた路線で、軍部の意向が強く反映された独特の構造を持っています。勾配は重量輸送を想定して全線10‰、正確には98分の1勾配=10.2‰に抑えてあります。この0.2‰にこだわるあたりがドイツっぽいですよね。

最小曲線半径は300mで、鉄橋がすべて砲台を運搬するために重量物耐荷重設計になっていたり、700mもの長大な待避線を持つ交換駅を設けてあったり、かなりのハイスペックです。全長20km程度のこの区間に交換駅が5か所もあるのもミリタリースペックの名残でしょう。全線に複線化準備工事もなされているそうです。

ヴータッハ・バレー鉄道の中間、現在は観光鉄道になっている部分はライン川の深い谷の絶壁沿いを走り、丘の畑の下を全長1700mのシュトックハルデ・ループトンネルで一周して高度を下げます。ループ線自体はトンネルと断崖に阻まれて眺望が効きませんが、前後の4つのヘアピンターンは丘と谷を見下ろす眺望の良い区間を走ります。

元が軍需路線だったヴータッハヴァレー鉄道は二度の世界大戦中は目論見どおり大活躍しました。ところが戦争が終わり、スイス国内を通過できない軍需物資の輸送需要がなくなると、存在価値が半減してしまいます。全線を走る貨物列車は1955年に廃止され、レールバスと貨物列車の区間便が細々と残るだけになっていましたが、ついに1976年、ヴータッハ・ヴァレー鉄道全線で旅客輸送も廃止されてしまいました。

ところがこの路線の景色の良さは以前より知られており、貨物列車が廃止になったころからすでに観光鉄道としての再生を模索する動きがありました。廃止の翌1977年には早くも廃止区間の一部を使って観光列車の運転が再開されています。ヨーロッパ各国からのアクセスが比較的良かったこともあり、観光鉄道は大成功となりヨーロッパでは一躍有名な鉄道名所となりました。軍事路線として生まれたループ線は眺望の良さのおかげで平和な時代を生き延びることができました。2017年は観光列車運転開始からちょうど40周年に当たっています。公式HPは→こちら


  • 全線に列車が戻った奇跡

現在、観光列車は5月から10月までの間、蒸気機関車牽引の列車が1日2往復4本走っています。なお、繁忙期でも週2日は運休日があるというのんびりした運行スケジュールですので、狙って乗りに行く場合は要注意です。たしか一昨年あたりまでは1日4往復運転して居た日もあったはずですが、いつのまにか列車が減ってます。

エプフェンホーファー大鉄橋。この線の一番の見どころです
運賃は片道16ユーロ(約2100円)、往復22.5ユーロ(約3000円)で、蒸気機関車ではなくディーゼル機関車が牽引する日は少し安くなります。

ヴータッハヴァレー鉄道はしばらくの間、と言っても約30年間になりますが、前後の廃線に挟まれて中間部部分だけが観光鉄道として走っている状態でした。ところが1990年代の後半から地方交通改革の流れが生じ2003年に南部、2004年に北部の旅客列車が復活しました。

北部を走るレールバス。リングツーク(RingZug)という愛称がついています。
今ではライン川沿いのラウフリンゲンからシュヴァルツヴァルトバーンに接続するイメンディンゲンまでの全区間を再び列車で通ることできるようになっています。

この再開区間は一応一般の普通鉄道とされていますが、南部は観光鉄道に合わせたシャトル運転で、観光鉄道が走らない日は全便運休となります。北部は2017年ダイヤでは平日8往復、休日3~4往復のレールバスが走っています。

全線を直通する列車が再開されないのは、中間の観光鉄道部分に残る旧型の腕木信号区間にレールバスが入線できないからとのことです。腕木信号を更新すると今度は蒸気機関車が走れなくなってしまって観光鉄道的にはまずいです。が、そもそも全線を直通する流動が少なく、再開する気もあまりないようです。

しかし30年前に廃止された鉄道路線に、形はどうあれ再度列車が走るようになることがあるのはいいことですよね。日本では路線廃止後に普通鉄道として復活する例は極めて少ないので少しうらやましくもあります。



次回はフランスのループ線をご紹介します。

2017/08/31

北米⑤ローリンズ峠ライフルサイトノッチループ  ある鉄道屋が残した線路の物語

  • ロッキー山脈を貫け!

今回はアメリカコロラド州、ロッキー山脈にあったループ線をご紹介します。

アメリカでは鉄道建設は民間資本によるのが原則だったことは何度がご紹介しています。これはメリットデメリット両方あったのですが、有名な鉄道投資家を何人も輩出した効果もありました。日本では阪急の小林一三と東急の五島慶太の二人ぐらいしか思いつきませんが、アメリカには有名な鉄道投資家が各地に数えきれないほどたくさん生まれました。

赤がデンバー・NW・パシフィック鉄道
青がデンバー&リオグランデ鉄道
点線はその他の鉄道
鉄道が乱立しているのはアメリカならではです。
今回ご紹介するコロラド州のローリンズ峠にあるライフルサイトノッチループはそんな鉄道投資家の一人コロラド州デンバーの銀行家、デビッド・H・モファットという人が生涯をかけて開通させた大陸横断鉄道の一つでした。

時代は1890年ごろの話になります。

この時期、コロラドから西海岸のオークランドまで、既に大陸横断鉄道が完成していました。デンバー&リオグランデ鉄道の914mmゲージの路線がロッキー山脈を迂回してプエブロからマーシャル峠を越えるルートで開通しています。

モファット氏は一時期デンバー&リオグランデ鉄道の経営陣に名を連ねていましたが、社内紛争の結果1891年に辞任させられてしまいました。

さらにデンバー&リオグランデ鉄道は、1890年に途中のサライダから分岐してテネシー峠を越えてグランドジャンクションに至る二本目のロッキー越えルートを同じく狭軌で開通させています。こちらは、標準軌の列車も走れるように三線軌とされ、当時はこちらがメインルートになっていました。

鉄道建設に私財を投げ打って奮闘したモファット氏、何が彼をそこまで駆り立てたのかイマイチ分かりませんが、デンバー&リオグランデ鉄道には波々ならぬ対抗心があったようです。

彼はデンバー・ノースウェスト・パシフィック鉄道という会社を作り、「ロッキー山脈を迂回せずに貫け」
”Through the Rockies, not around them." を合言葉に、1902年ライバル会社のルートに距離の短さで対抗する新線の建設に取り掛かりました。

工事は順調というよりもむしろ突貫で進み、1904年には大陸分水嶺のローリンズ峠を越えてアロー駅まで開通します。

有名なライフルサイトノッチのループ線はこの時誕生しました。

モファット氏はもともと長大トンネルでこのローリンズ峠を越えようと目論んでいたのですが、20世紀初頭の技術では無理だったようです。

  • 偉大な志は名前となって今も受け継がれる

さて、このライフルサイトノッチのループ線は全長37㎞の峠越えの途中にあり、最急勾配40‰、冬季は豪雪となる難所中の難所でした。一周1.6kmと当時としてはかなり大規模な輪を描いており、高低差はループ線部分だけで約80mでした。
ライフルの照準に見えなくもないでしょうか

ライフルサイトは文字通りライフル銃の照準のことで、ノッチは”細い道”です。ちょうどループ線部分のトンネルと橋の組み合わせがライフル銃の照準に見えることから名付けられました。

ついでですが、このローリンズ峠越え区間にある駅名やトンネルの名前はアメリカンジョークのような名前が付いていて見ていると面白いです。一見普通の名前に見えるアロー駅、コロナ駅、パシフィック駅なんかもひねりのきいたジョークが隠されてるのかもしれません 。

鉄道にとっては難所中の難所でしたが、雄大なロッキー山脈の中の景色の良い場所を通っており、たちまちアメリカ人に人気の鉄道名所となりました。


ところが、モファット氏が1911年に急死するとデンバー・ノースウェスト・パシフィック鉄道の経営は途端に傾き、1913年にあえなく倒産。西海岸どころかソルトレイクシティにもたどり着けずに工事は中止になってしまいました。

完成していたデンバー・ノースウェスト・パシフィック鉄道の路線はデンバー・ソルトレイク鉄道に吸収されますが、それ以降も何度も経営主体が変わっています。

ただ、ロッキー山脈を迂回せずに貫いた峠の路線はその距離の短さが絶対的優位に働き、既存のテネシー峠を越える路線との連絡線(ドットセル連絡線)が建設されて大陸横断のメインルートの地位を確立していきました。
アロー駅。驚いたことに水平な引き出し線に
ホームを作った日本によくある構造のスィッチバックだったようです。
隣のランチクリーク駅も衛星写真から見る限り同じ構造でした。

1928年、 モファット氏の最初の構想どおりローリンズ峠を越える延長10km勾配8‰のトンネルが開通し、ライフルサイトノッチのループ線は新線に切り替えられて廃止されました。

26年間で使命を終えた比較的短命なループ線でした。新線の長大トンネルはモファットトンネルと名付けられています。西海岸までは届きませんでしたがロッキーを越えるモファット氏の志はトンネルの名前として今も残っています。


  • 古き良きアメリカの魂

廃止されたループ線の方はローリンズ峠トレッスル(通称モファットロード)として遊歩道兼車道になって大部分が残されていますが、トンネルや橋が崩落している部分があります。ちょうどループ線の部分は木造の橋もトンネルもどちらも通行止めで現在は車では通れません。
現在のループ線の状況
雰囲気はよく残っていますがトンネルは埋められています

このライフルサイトノッチのループ線はロッキー山脈に挑んだ点がアメリカン魂を刺激するのか、古くに廃止された割には全米の鉄道愛好家に愛されており、現地の写真が豊富に見つかります。

また、新線となったモファットトンネルにはロサンゼルスとシカゴを結ぶカルフォルニアゼファー号が毎日運転されています。カルフォルニアゼファー号はまる3日間かけて3000㎞を走る超長距離列車ですが、毎日運転されているのは結構すごいです。

西向きに乗った場合は2日目の午前中に、東向きに乗った場合は2日目の夕方にロッキー山脈越えのモファットトンネルを通ります。一部の区間だけでも乗れますので、デンバーから西向きに乗って途中で折り返してくることも可能です。

これも一度は乗ってみたい列車ですね。



次回はドイツのループ線をご紹介します。

2017/08/15

アジア⑪韓国嶺東線ソラントンネル 三冠に輝くループ線のプリンス


  • 東洋のプリンス・オブ・スパイラル

今回は韓国Korail嶺東線のループ線をご紹介します。現時点でいくつものループ線に関する世界タイトルを持っているループ線のプリンスです。

ソラントンネルの北口
旧線の最終日だそうです。こちらからお借りしました。
韓国の嶺東線は太白山脈東側の東海岸部とソウルを中心とする韓国中央部を結ぶ唯一の鉄道路線です。東部の海岸沿いを走る部分は戦前から工事されていましたが終戦までに完成せず未成線となっていました。

また、山越え部分は三附鉄道という私鉄線として1940年に開通しました。有名な嶺東線の二段スィッチバック(羅漢亭ナハムジョン、興田フンジョン)もこの時の開通です。三附(サムチョク)には小野田セメントの工場があり、付近から産出される石炭や石灰などを使った工業が発達していました。三附鉄道は終戦後の1948年に韓国国鉄に編入されています。

開通時は最後の峠越えの部分桶里(トンリ)~深浦里(シンポリ)間はインクライン輸送となっていました。鉄道線で海岸沿いから来た貨車を深浦里で切り離し、貨車だけをインクライン(ケーブルカー)で引っ張り上げて桶里で再度貨物列車に編成し直すという運用を行っていたそうです。

桶里~深浦里間にあったインクライン
これはどれぐらいの勾配なんでしょうか
「鋼索鉄道のインクラインに直接貨車が乗り入れていた」と書いてある資料がありましたが、普通の鉄道貨車を鋼索鉄道上で走らせるのは、連結器性能や非常時のブレーキ性能から考えるととんでもなく危険です。

「ケーブルカーに(貨物を)積み替えていた」と書く資料もあり、普通に考えるとこちらだと思います。もし本当に普通の鉄道貨車を鋼索鉄道上に直通させていたとすれば、これは世界の鉄道史上かなり珍しい運行形態です。

なお、旅客は両駅間を徒歩で乗り継いでいたそうです。

さて1960年代に輸送力の限界に来たところで、インクライン部分を直結するバイパスルートの建設が進めら、 1963年にバイパス線が開通してインクラインは廃止されました。これが先日まで稼働していた嶺東線の旧線ルートです。この旧線の完成後もこの区間は30‰の連続勾配と曲線半径250mのカーブが続く超難所でした。


  • 三冠王には違いないけど…

この超難所を抜本的に解消するために建設されたのがソラン・ループトンネルです。漢字では率安と書きます。2001年から建設が始まり、トンネル自体は2006年ごろには完成していました。当初2009年開業予定でしたが何度か延期され、結局2012年に開業しています。前後の取付線の工事に手間取ったそうです。

ソラントンネル山上側の東栢山口こちらからお借りしました
将来はもう一本トンネルを掘って複線化する計画がありますが、まずは単線で開業しています。ちょうど中間地点にあるソラン信号場付近だけは二本目のトンネルが先行して掘られており、列車交換ができるようになっています。

トンネルの全長は16.2kmですが、ループ形状になっているのはこのうち半分だけです。トンネルの両端には380mの高低差があり、トンネル内の勾配は24.5‰もあります。

最新の長大ループトンネルをもってしてもなお25‰クラスの勾配が残るという極めて急峻な地形だったことが分かります。

また、この沿線では良質な石灰や石炭を産出していたのですが、大変もろくて崩れやすい地形だったそうです。ソラントンネルはちょっと不思議な形状をしているように見えますが、これは崩れやすい地層帯を避けながらルートを決めたためです。


ソラントンネルのループ線の曲線半径が分かる資料が残念ながら見つかりませんでしたが、You Tubeにあった走行ビデオから計算してみると曲線半径1400m、輪の大きさはおよそ8.8kmと推定されます。

設計速度は150km/hですが、実際の営業運転では85㎞/hぐらいで使用されているようです。また一周8.8㎞のループ線は現在世界最大で、しかも線路規格が最高ランクです。ソラントンネルは2017年時点で世界最新・世界最大・世界最高規格の三冠を持っていることになります。


ソラントンネルの通過動画です。道渓駅から東栢山駅までを3倍速で撮影しています。
2分23秒のソラン信号場あたりから4分30秒ぐらいまでがループ線です。

ただし、全線がトンネル内ですので眺望はまったく期待できませんし、線路同士の立体交差点も乗車中にはまったく分かりません。極論するとただの長いトンネルです。

鉄道趣味的に新線のループトンネルと旧線のスィッチバックとどちらがよいか、と言われると難しいですね。ループ線マニア的にも、最新はともかく、最大最高の2つは参考記録にしておくべきかちょっと悩ましいところです。とは言え一般旅客にとっては嶺東線の旅客列車は軒並み20分程度所要時間が短縮されていますので、やはりソラントンネルのメリットは大きいです。

現在、ソラントンネルには夜行列車を含めて9往復の旅客列車が走っています。ソウルから5時間弱かかりますが、日帰りもできなくはありません。


  • 観光施設として引き続き活躍中

せっかくですので韓国随一の鉄道名所として有名だった旧線の二段スィッチバックも少しご紹介しておきましょう。

旧線では海側から登ってきた列車はナハムジョン駅とフンジョン駅で二回スィッチバックしていたことは上述のとおりです。両駅とも駅を出るといきなり30‰勾配が始まるという凶悪な線形で、しかもここを通る列車は後退運転の苦手な機関車牽引の列車ばかりでした。

フンジョン駅から旧線のスィッチバックを下っていく貨物列車
推進運転中なので機関車が最後尾です
こちらからお借りしました
ここの特徴はナハムジョン・フンジョンが両方とも日本でいうところの停車場扱いだったことです。現存している日本のJRのZ型スィッチバックはすべて最初の折り返しから最後の折り返しまでが一つの停車場扱いになっています。つまり列車がすれ違えるのはスィッチバック全体で1回だけです。

ところがここの場合、下段のナハムジョン駅ですれ違って、さらに上段のフンジョン駅ですれ違うというダブル待避が可能でした。これは両者が別の駅とされていたからこそできたことでした。

両者の駅間は1.5kmしかありませんでしたが、輸送需要の増加に対応するために1990年代にフンジョン駅を停車場に格上げしたそうです。詳細は分かりませんでしたが、それまではおそらくフンジョン駅はナハムジョン駅の構内だったのではないかと思います。


スィッチバック推進運転中の客車からの前面展望
見張り員さんを差し置いてどうやって撮影したんでしょうね
ナハムジョン・フンジョン両駅で貨物列車と連続交換しているところにも注目です
機関車が最後尾になるスィッチバック区間中では先頭に見張り員が乗車し、信号を確認して無線機で機関士に指示を出す運転をしていたそうです。こちらのページに詳しく出ています →東アジア鉄道イソウロウ事務所

嶺東線のスィッチバックは韓国の鉄道名所として鉄道ファンに愛され、日本からわざわざ乗りに行った方も多数いました。WEB上で検索するとたくさん現地レポートが見つかります。

旧線は現在韓国鉄道施設公団が運営する鉄道記念鉄道公園チューチューレールパークとなっています。スィッチバック設備も残されていて観光列車が走っています。またチューチューレールパークでは昔のインクラインも復元されていて、レールバイク(足こぎトロッコ)で旧線を走り降りてくることができるそうです。これは結構楽しそうです。




次回はアメリカのループ線をもう一カ所ご紹介します。

2017/07/23

欧州㉕フロム鉄道 世界最北のループ線が持つもう一つの世界一

  • あくまで脇役だったループ線
今回は北欧ノルウェーのループ線をご紹介します。

ノルウェーでは首都オスロから十字に幹線鉄道が走っています。そのうち西へ向かうのがベルゲン鉄道です。フロム鉄道はベルゲン鉄道の途中のミュルダール駅から分岐してソグネフィヨルドのそばのフロム駅までを結んでいます。

ノルウェー語のFlåmsbana,Bergensbanaをそのまま和訳してフロム鉄道、ベルゲン鉄道としている旅行ガイド等があって、私鉄の路線のように思えますが、どちらもノルウェー国鉄の一路線です。フロム線、ベルゲン線と書いた方がニュアンス的には実態に近いと思うのですが、公式ページ(→こちら)もフロム鉄道となっているので、当ブログの表記はそれに従っています。ゴッタルドバーンでもそうでしたが、このゲルマン語系のバーンという単語は和訳する時に混乱しやすいですね。

ミュルダールとベルゲンの間は標高1230mのフィンセ峠があります
フロム鉄道はベルゲン鉄道からソグネフィヨルドまでの接続線として計画され、1924年から工事が始まりました。かなりの難工事だったようで、開業したのは第二次大戦中の1941年です。

もともとフィヨルドが発達したノルウェー海岸部は大量輸送と言えば船舶による水運でした。フロム線はソグネフィヨルドの沿岸とオスロを結ぶという観点でルート選定されており、特にフロムの町に何かがあったわけではありません。極論すれば目的地はフロムでなくてもよかったということになります。

フロムの町は現在でも人口350人で、鉄道の開通によって港湾が劇的に発展した形跡もありません。その成り立ちから言って、フロム鉄道はあくまでベルゲン鉄道と水運の補助役でした。

ミュルダール駅の遠景。左奥の傾いたトンネルがフロム鉄道です。
写真はオスロ行の特急列車。こちらからお借りしました

それでも通年通行可能な輸送機関によってフィヨルド沿岸と主要都市が結ばれたのは大きく、旅客列車と貨物列車が1日2往復ずつ走り出しました。

1945年には電化が完成し、電気機関車の牽引に置きかえられます。鉄道は観光需要を掘り起こし、1970年代までは輸送量は右肩上がりだったそうです。

ところが1980年代に入ると観光需要が頭打ちになります。フェリーと接続してフィヨルド沿岸の町への郵便や日用品の物流に使用されていた貨物輸送も徐々に整備された道路輸送に置き換えられて行き、フロム鉄道は経営的にピンチを迎えます。ちょうど電気機関車などの車両が更新時期にさしかかっていたのも大きな負担でした。

この時ノルウェー国鉄はフロム鉄道を観光資源としてPR強化することで乗り切りました。同時にそれまで全国一律だった鉄道料金に割増運賃を設定したのも大きかったようです。現在では年間70万人の観光客を運ぶノルウェーの国家的観光スポットになっています。

  • 氷河地形に真っ向勝負で挑む
さて、フロム鉄道は海抜0mのフロムの町と海抜866mのミュルダール駅間を約20kmで結んでおり、最急勾配55‰、標準勾配28‰のハードな登山鉄道です。

特にU字谷の最奥部にあたるミュルダール駅近辺は四方が切り立った崖にへばりつくルートで、高度を稼ぐために相当苦心した様子がうかがえます。

もともと鉄道が苦手とする氷河地形のU字谷に、正面から挑んだなんともアツい鉄道です。最終的には通常の粘着鉄道となりましたが、当然ラック式も検討したようです。トンネルはほとんど手掘りだそうです。

ループ線の構造も思い切り特殊で、狭い土地にヘアピンターンを5ヶ所無理にはめ込むために、やむなく線路を交差した感じになっています。乗っているだけではループ線と気が付きにくい線形かもしれません。

勾配は上にも書いた通り55‰、曲線半径は130m、高低差はこの区間だけで100mです。最高速度は上りミュルダール行き40km/h、下りフロム行き30km/hで、時刻表をよく見ると下り列車の方が上り列車よりも少しずつ所要時間が長くなっています。

フロム鉄道は世界最高緯度、つまり世界最北のループ線でもあります。

アラスカ鉄道ザ・ループの方が北にあるイメージが個人的にありましたが、調べてみるとぎりぎりフロム鉄道の方が北でした(アラスカ鉄道ザ・ループ:北緯60度39分35秒、フロム鉄道:北緯60度44分36秒)。

北緯60度を超える地域では鉄道路線自体が希少ですが、その中でもループ線の存在はひときわ目立ちます。ちなみにシベリア鉄道の本線は最北部でも北緯58度で、北緯60度を超えるところは走っていません。


  • 値段なりの価値があればそれでいい

現在フロム鉄道は夏季は日中ほぼ毎時1本ずつ1日10往復、冬季は1日4往復の列車が運行されています。以前はオスロから直通の夜行列車が走っていましたが、現在はすべてミュルダール・フロム間の線内往復列車です。

料金はミュルダール・フロム間20km約1時間で片道360クローネ=4800円、往復480クローネ=6300円とかなり割高です。というかこれは世界的に見ても相当高い鉄道運賃だと思います。

ヴァトナハルセン駅。駅に隣接してホテルがあります。
一応ユーレイルパス所持者向けに30%の割引がありますが、逆に言うとユーレイルパスを持っていても別料金を払わなければ乗れないということです。単位乗車時間あたりの料金は日本の新幹線並みのハイリッチな鉄道です。

一般鉄道のループ線としては世界最高の運賃設定だと思います。ちょっと調べきれませんでしたが、観光鉄道を含めてもおそらく世界最高額ではないでしょうか。フィヨルド観光用にバスやフェリーとセットになった周遊券も発売されていますが、日本円で30,000円近い価格設定となっており、正直得なのかどうか判断しづらいです。少なくとも安くはないです。

それでもフロム鉄道はノルウェー観光のド定番コースとなっていて、日本人の旅行記もWEB上に多数見つかりますが、値段が高いという指摘はほとんどありません。現時点で不満が出ていないということは値段なりの価値は認められているということでしょう。

ノルウェーの鉄道路線はフロム鉄道に限らず、海と森と山のコントラストの中を走る風光明媚な路線が多く、一度ゆっくり訪れてみたいところです。







次回は韓国のループ線をご紹介します。