2017/04/28

南米③アジア⑩未成のループ線その2 ボリビア ズダニェス・スパイラル&北朝鮮咸北線

  • アンデス山中の知られざるワールドクラスのスパイラル
前回に引き続いて未成・短命ループ線を見て行きます。

今回は南米の素性がよく分からないミステリアスな未成ループ線と、北朝鮮のかろうじて列車が走った記録の残るループ線をご紹介します。

まずは南米ボリビアの中央部、標高2800mの古都スクレから南東に行ったところにあるズダニェス・スパイラルです。

何はともあれ、とりあえず衛星写真のスクリーンショットをご覧ください。なぜか南米地域だけはGoogleよりも解像度が高いBing Mapで見ると分かりやすいです。



衛星写真にこれでもかと言うぐらいはっきり超特大規模のループ線の路盤が映っています。ズダニェスの町から約20㎞南の無人の山の中で、こんなところにこれだけの規模のループ線があるとは一瞬信じられません。路盤を着色すると右のような感じです。駅跡っぽいものも画面右に見えます。

全長8km、高低差250m、中央の山の回りをほぼ2回転するループ線を挟んで前後に5つのヘアピンターンを持つ世界トップクラスの規模です。写真左上に向かってのぼり勾配で、3段になっている崖の縁に沿って高度を上げていきます。勾配は地形図読みで25‰程度です。

ボリビアは東西を結ぶ鉄道路線がありません
道路も少なく、東西連絡は長年の悲願だったそうです

ところが、このループ線、少なくとも現役でないことはすぐ分かるのですが、いつ誰がどのように建設し、そしてどのように廃止になったのか、最初はまったく分かりませんでした。

世界銀行資料より。赤線は当方で追加。原本はこちら
この謎の路盤を衛星写真でたどっていくとタラブコを通ってスクレまで続いています。スクレ・タラブコ・鉄道で検索していると、「スクレ・タラブコ間は1週間に20人しか乗客がおらず、はなはだ不経済なので1973年6月末までに廃止することで合意した」と書いてある資料を見つけました。

スクレ・タラブコ間約80kmが1970年代の初頭まで営業運転を行っていたことはこれで分かりましたが、この時タラブコより先のループ線までの線路がどうなっていたのかというと、これがまたよく分かりません。

赤線は当方で追加
必死に調べてやっと検索に引っかかってきたのが右下の資料です。スペイン語で「1947年ごろタラブコから100kmのチャコリョ Chacolloまで盛土の工事が終わっていたが、50年代に工事が中止された。理由は分からない。」と書いてあります。チャコリョは上の衛星写真よりも少し左にある村の地名です。

ここまで調べてやっとこのループ線が未成線だったことが判明しました。以上の断片的に分かったことを繋ぎ合わせて、当ブログでは次のように推測しています。

1940年代後半にスクレから、タラブコ・ズダニエスを通ってボユイビ間を結ぶボリビア東西横断鉄道の建設が始まりましたが、1950年代にとん挫してしまいました。この段階でズダニエス・スパイラルの少し先まで土木工事が行われており、その痕跡が今も衛星写真に残っているものです。

工事がとん挫した原因はボリビアの政情不安によるものだと思いますが、はっきりしません。完成していたスクレ~タラブコ間ではとりあえず営業運転が始まっていましたが、需要が少なく1973年ごろに廃止になりました。

  • 鉄道建設は完成してこそ価値がある。当たり前なんだけどね 

本当にバスの車体に車輪を付けた車両が走っています
こちらからお借りしました
ボリビアでは、アンデス山脈沿いとアマゾン平原間を結ぶ東西交通の建設が長年の悲願でした。そこに太平洋側との交易を狙ったアルゼンチンの思惑が一致して、アルゼンチン資本で鉄道建設が始まったのだと推測できます。

ところが、政情の安定しないボリビアにアルゼンチンの投資家が逃げてしまい、資金不足で工事が中断してしまった、という感じでしょうか。

ここも完成さえしていれば、ボリビアの最重要幹線になった可能性も大きいのですが、人口の少ない山の中の盲腸線では維持に金がかかるだけで廃止されたのも無理はありません。完成しなかった地域間連絡路線の末路は古今東西どこでも厳しいものです。日本にもいくつも例がありますね。

なお、この路線のスクレ~ポトシの間は現役で、2017年現在でも旅客列車が走っています。列車と言っても単行のレールバスで、週3往復しかありません。日本人の鉄道の感覚でいるといろいろ衝撃的です。詳しく紹介しているページがありましたので一度見てみてください。→こちら
※2017年末時点では運転されていないそうです。廃止なのか休止なのかは不明です。

また、21世紀になってまたボリビア東西鉄道建設が取り沙汰されているようですが、北側のコチャバンバからサンタクルーズに抜けるルートが有力視されており、ズダニエスに線路が復活する見込みはほとんどありません。

書き忘れていましたが、タラブコはブエノスアイレスが河口のラプラタ川流域、ズダニエスはアマゾン川流域で、どちらも最源流部分でもあります。水域マニアが喜ぶ大変川の流れが入り組んだ地域でもあります。

  • 人知れず残る大陸への足跡

さてもう一か所は北朝鮮です。こちらも先に画像をご覧いただいた方がいいでしょう。


拡大地図の表示

清津(チョジン)から中朝国境に向けて約30km行ったところにループ線らしきものが映っています。ループ線の曲線半径は400m、高低差70mほどです。衛星写真で線路をたどっている際に偶然見つけたものなのですが、未成線か工事中の路線かなと思っていました。

昭和9年(1934年)の路線図です。
咸北線は二度目の満鉄委託になっており青線で描かれています
「百年の鉄道旅行」さんのサイトから抜粋でお借りしました。
この路線は咸北(ハムブク)線という路線で、日本統治時代の1916年(大正5年)に北鮮の港と満州連絡のために朝鮮総督府鉄道として開通しました。まだソウル方面からの路線が開通しておらず、離れ小島の路線だったため、運営はまるごと満鉄に委託されました。1928年(昭和3年)にソウル~清津間の咸鏡線が開通して離れ小島は解消され、晴れて鮮鉄直営になります。

この時代、沿線で採れた石炭と水力発電から得られた豊富な電力をもとに清津では重工業が爆発的に成長し、一帯は新潟との間に北鮮航路も開かれて、日本・朝鮮・満州の3つの地域を結ぶ最新の工業地域になっていきました。咸鏡線も超重要な大幹線となります。

ところが、満州事変の勃発により咸鏡線は日満連絡北鮮ルートの重要幹線として再度満鉄に運営委託されます。最終的に満鉄の委託運営がなくなったのは1940年(昭和15年)のことでした。

ここまで調べたところで、このループ線は戦争末期の輸送力増強工事中に敗戦となり、放棄された未成線の残骸かな、と推測していました。

  • プロの記憶は侮れない
それ以上調べる方法もなかったので、未成線と個人的に結論づけていたのですが、それは大きな間違いで、意外なところから正解が見つかりました。それがこちらの文章→「咸北懐記へようこそ」です。一部を引用させていただきます。
 
昭和十六年、古茂山~蒼坪間に石峰信号所が設置された。退避線が出来て、咸鏡線は茂山嶺の峡谷沿いに迂回して、長円を描きながら、石峰信号所の上あたりで、目が回るような高い、しかもカーブのピーヤを渡り、ループ状に峡谷をひとまたぎして、茂山側の山腹を大きく巻いて蒼坪にいたる十五.三キロの一部新線に変わり、勾配率も曲線率も大幅に緩和された。

 それでも、十九年十月一日改正の時刻表によれば、下り三二五列車(図們行)は古茂山~蒼坪の一区間を四十三分運転。(上り三二六列車は二十六分)続く七ッ隧道の蒼坪~全巨里間 五.八キロを二十分運転、たった二駅走るのに一時間以上かかったのだ。如何に急勾配の難所であったか、今の時代では想像も出来ない。直線距離にすれば、つい目と鼻の先指呼の距離である。
この文章は衝撃でした。機関士さんだった方の体験手記ですが、引用部分以外にも当時の朝鮮半島の鉄道の様子だけでなく、大陸に進出した日本人と現地の朝鮮人とのやり取りなどが超リアルに記されています。政治的な話を抜きにして是非ご一読することをお勧めします。この文章にはかなりの学術的価値があると言っても過言ではないと思います。

朝鮮戦争時1950年のアメリカ軍作成の地形図
はっきりとループ線が描かれていて感動しましたが、
この時代は列車は走っていないはずです
テキサス大学地図ライブラリ許諾済み

この「咸北懐記」によりますと「昭和16年」に「退避線のある石峰信号所」ができて、「信号所の上にはループ線がまたいでいた」とのこと。これがまさに上記の写真のループ線で間違いなさそうです。なお、文中に出てくる「ピーヤ」とは橋台のことですが、この文章では高架橋のような意味合いで使われています。

1945年(昭和20年)の敗戦以降の咸北線の足跡は部分的にしか分かりません。清津は昭和20年8月の敗戦直前にソ連軍に占領されており、この時点から朝鮮戦争終了までループ線を含む咸北線の運行は停止していたものと思われます。朝鮮戦争後の1960年代に中国とソ連の援助で復興されたと新聞に書かれています。

どうやら朝鮮戦争後の咸北線復旧時にループ線を経由しない新線を引き直したのが現在の咸北線で(下の地図の黄線)、この時にスィッチバックだった石峰信号所も現在地に移転して通常駅に改修されたのではないかと思います。この時旧線(下の地図の緑色の線)の路盤を一部流用したため線路の遷移が非常に分かりにくくなっています。

衛星写真にも複数の線路跡が写っており、パッと見ただけでは経緯が分かりません。韓国のオンライン辞書では日本式のスィッチバックを知らないからでしょうか、「意味の分からない側線がたくさんある謎の駅」と紹介されています。

この咸北線石峰ループは、昭和16年から20年までの4年間だけ列車が走っていたことになります。実際に開業したループ線の中では間違いなく世界一短命です。スィッチバック付きループ線だったことや、築堤を使って自力で高度を稼いでいたことなど相当珍しい形態のループ線だったこともポイントです。さらにそれに加えて樺太の宝台ループと同様、日本人が大陸に残してきた足跡だったことも記憶しておく必要があると思います。

なお、石峰信号所一帯はかなり南に向かって下がっている傾斜地で、そのスィッチバックでは折り返し線を水平に引き出すために北側は地面を掘り下げ、南側は築堤で持ち上げてあります。折り返し線の北端はループ線をくぐっていたようで、スイッチバックとしても非常に珍しい形態だったと言えます。





さて、未成短命ループ線をご紹介してきましたが、さすがに超ド級のマイナー度でアクセスが全く伸びませんが、まあそれは覚悟の上です。

ズダニエス・スパイラルも石峰ループもまだ分からない部分も多いので、これからも少しずつ調べて行きたいと思っています。石峰ループはできれば現地に行ってみたいのですが、今の情勢を見るに1億%無理でしょう。

超マイナーループ線は一旦おいておいて、次回からしばらく、有名な、あるいは有名だったループ線をご紹介していきます。

まず、次回はループ線の代名詞にもなっているあれから見て行きましょう。


2017/04/18

欧州㉓未成のループ線その1 シチリア島・リエージ線&フランス・トランセヴナール線

  • 欲張りすぎてはいけない

今回は不幸にも列車が走らなかった未成ループ線をご紹介します。完成したかどうかは別にして、工事したにもかかわらず列車が走らなかったというループ線を超マニアックに取り上げていきます。まずはヨーロッパの未成ループ線を2か所見てみましょう。

1ヵ所目はイタリア・シチリア島南西部のリエージ・スパイラルです。

シチリア島の南西部のカニカッティ近郊にはトラビア・タッラリータ鉱山という大規模な硫黄鉱山があり、19世紀には多くの人口を有していました。鉱石の搬出と鉱山労働者の通勤用に早くから鉄道建設が望まれていました。

ロープウェイのような運搬機械を使って鉱石輸送を行っていたようですが、イタリア国鉄線がカニカッティまで完成したことから、鉱山労働者が多数住んでいたリエージとカニカッティ間の全長34kmの鉄道建設が1910年ごろから始まりました。


まるで古代遺跡のような風景が続きます
開通していれば景色の良さではトップクラスになれたのに惜しいです
Ruggero Russoさんのサイトよりお借りしました
→UNA FERROVIA MAI NATA: LA CANICATTI' - RIESI
当初は早期開通を目指して950mmゲージで建設が進められましたが、第1次世界大戦で工事は中断します。

第1次大戦後の1930年代後半に工事を再開した際に、国鉄線と直通しシチリア島東西を結ぶ幹線級の路線にしようとの目論見で標準軌規格での建設に変更しました。

カニカッティ~ソマンティーノ間約20kmは既に950mmゲージ規格で土木工事の大半が完了していましたが、残りの区間の完成に合わせて標準軌規格に修正する計画だったようです。

ところが、1940年代に第2次世界大戦で再度工事が中断してしまいます。戦後は肝心の硫黄鉱山がすっかり斜陽化してしまい、ほとんど完成していた土木構造物だけを残して、線路が敷かれることなく1950年代に正式に放棄されました。

結果的には、標準軌規格に変更したことが敗着となってしまいました。なんとも皮肉なものです。950mmゲージのまま建設が続けられていれば、少なくとも一度は開業できたと思われます。

標準軌に変更したがために完成が遅れ、その数年の遅れが致命傷となった世界でも指折りのかわいそうな路線です。もっとも950mmゲージのまま開業していたとしても第2次大戦後のモータリゼーションで結局廃止になっていた可能性も否定できませんが。

衛星写真でもはっきりと痕跡が残っており、線路さえ引けばすぐにでも列車が走れた様子が伺えます。

なお、リエージは現在治安最悪のマフィアの町として有名になってしまっているようです。現地に行くには相当の気合いが必要かもしれません。



全線の様子はこちらが詳しいです。→Ferrovie Abbandonate イタリアの廃線 
これを見ると950mm規格の西半分カニカッティ・ソンマティーノ間と標準軌規格の東半分ソンマティーノ・リエージ間では明らかに線形に差があるのが分かります。


  • 合併された側の悲哀

もう1ヵ所はフランスの南部、ローヌアルプ地方の深い山の中に建設されたトランセヴナール線です。

ラ・ルー峠以北はほとんど完成していました
この路線は、1850年代にグランドセントラル鉄道会社が、パリからクレルモンフェランを通ってニームへ向かう最短ルートの幹線として計画されました。さっそく起点のル・ピュイから工事が始まります。当時のフランスの鉄道は全部民間運営で、儲かりそうとあらば際限なく鉄道が作られた、いわゆる鉄道狂時代でした。

ところが、グランドセントラル鉄道は1859年にパリ・リヨン・地中海鉄道(PLM鉄道)に吸収合併されてしまいます。

PLM鉄道は独自にクレルモンフェラン・ニーム間をアレス経由で結ぶセヴェンヌ線を建設している最中で、セヴェンヌ線が1870年に先に開業します。普通に考えて自社線の建設を優先しますよね。

クレルモンフェラン・ニーム間の幹線となる目標を失ったトランセヴナール線は地域ローカル線として引き続き建設されますが、重要度が大きく下がってなかなか工事が進まなくなりました。

30年かかってやっと起点のル・ピュイから約60kmのラ・ルー峠まで工事が進みましたが、ここで第1次世界大戦で工事中止のお決まりのパターンにはまります。

全長90kmのうちラ・ルー峠以北約60kmはほとんど完成していたにもかかわらず、1937年に発足したフランス国鉄SNCFはこの路線の工事続行を断念してしまいます。

ついに1941年にトランセヴナール線は正式に放棄されることが決定しました。せめて完成していた北半分だけでも開業させればよかったのにと思いますが、全線まとめて放棄された理由はよく分かりません。

最初に着工してから90年、結局トランセヴナール線には一度も列車が走ることはありませんでした。

トランセヴナール線の予定線が描かれている地図
トランセヴナール線のループ線はラ・ルー峠の南側にあり、北側=山の上の方から工事が進められていました。

一般的にループ線は標高の低い側から建設していくことが多いのですが、ここは逆だったようです。標高の高い方に工事の痕跡が残っています。ただし、ほとんど完成していた峠以北と比べると着工したばかりだったのでしょうか、衛星写真ではほとんど見分けが付きません。

右下から山脈を2回トンネルで横切ってモンペザ駅、その後ダブルへアピン、
最後にループ線という超大規模計画でした。この区間だけで高低差200mを上っています
今でも現地の地元の人には列車が走らなかったことを惜しむ気持ちが強いらしく、未成線の割には路線図や線路配置図などが豊富に見つかります。また駅ができる予定だったモンペザの役場にはループ線の模型が飾ってあるそうです。

マニア的にも完成していればヨーロッパ最大規模となっていた二重ループ線は非常に惜しい存在です。

企業経済と戦争に屈した未成ループ線。 歴史にifは禁物ですが、グランドセントラル鉄道が吸収合併される前に完成までこぎつけていれば、今でもフランス中央高地を南北に結ぶ幹線の一つとして活躍していたかもしれません。


 ループ線付近は痕跡が少ないので路線図はほとんど推測になってしまいました。

  • おまけ~ 実は日本にも・・・

さらにもう一か所。未成ループ線と言えば実は日本にもあります。奈良県の五新線立川渡トンネルです。

ここは奈良県の五条と和歌山県の新宮を結ぶ吉野杉の運搬用路線として計画され、戦時中の1939年から建設が始まっています。戦後1957年に思い出したように工事が再開し、1970年代まで少しずつ工事が進行していましたが、国鉄の累積赤字が問題となった1982年に全線工事凍結されてしまいました。

この路線の途中に立川渡トンネルというところが高低差50mのループトンネルになる予定でした。

立川渡トンネル前後の路盤は完成していましたが、肝心のループトンネルだけが未着工で、残念ながらループ線自体の痕跡はまったくありません。難易度の高いループトンネルは後回しにしたのでしょうか。詳しくは→こちら


ディープなループ線マニアの世界、次回もおそらく世界でも知っている人が1万人いるかいないかの超マニアックな未成・短命ループ線をご紹介します。


 

2017/03/31

アジア⑨ダージリンヒマラヤ鉄道 マニア的には物足らないが有名すぎて外せない

  • ワールドクラスの山岳鉄道
今回は連続ループ線シリーズの最終回、インドのダージリンヒマラヤ鉄道をご紹介します。

このダージリンヒマラヤ鉄道は、もともとは英領インド帝国時代の1881年にダージリン地方で生産されるお茶の輸送と避暑地への足として開通した610mmゲージの鉄道です。

晴天は極めて珍しいそうです
海抜121mの麓の町シルグリから海抜2076mのダージリンまでの標高差1900mを上る全長81㎞、最急勾配56‰の超ド級山岳鉄道です。

線内の最高所はダージリンから5㎞ほど手前の標高2257mのグームで、終点の直前に5㎞で高低差200m、40‰の下り急勾配のおまけが付いているのも特徴です。

もともとダージリン地方はシッキム王国というチベット系の国の領土だったのですが、イギリスの圧力でシッキム王国から英領インド帝国に割譲させられたのが1849年でした。

17世紀ころからアジアに進出していたイギリスですが、19世紀の後半はインド亜大陸を完全に掌握し、勢力を中国やアフリカに広げようとしていた時期です。

イギリス人は暑さに弱いらしく、気温の高い地域に進出すると必ず避暑地を作っています。ダージリン地方はインドの避暑地として最適でした。避暑地を開拓したイギリス人は勢いに乗ってネパール系の労働力を投入し、紅茶を栽培しました。

この時大量に移住したネパール系の民族がネパール系、チベット系、インド系入り乱れて旧シッキム地方の政情不安を引き起こし、後にシッキム王国を崩壊させる原因となっています。まったくイギリス人は紛争の火種をまきまくりと言われても仕方がありません。シッキム王国が完全にインドの一部になったのは1975年ですので意外と最近です。詳しくは→こちら

  • ひそかに増えたり減ったり
さて、ダージリンヒマラヤ鉄道は1999年に世界遺産に登録されて一気にスターダムにのし上がりました。いまや世界的な観光地となりましたが、そのルート上にあるループ線の数は時代によって変化しています。

開通当時の路線図
ループ線が4カ所ありますが、バタシアループがまだありません
現在のループ線の数は3カ所で、下から順にチュンバティループ、アゴニーポイント、バタシアループと名前が付いています。このうち一番終点のダージリンの近くにあるバタシアループは1919年の線路改良で作られたもので、開業時には存在しませんでした。

開業当時はチュンバティループよりも手前の麓側にもNo2ループ、No1ループと呼ばれるループ線がありましたが、No2ループは1942年、No1ループは1991年に、どちらも水害による土砂崩れで撤去されてしまいました。No1ループは線路を付け替えたため、痕跡はまったく残っていません。No2ループはスィッチバックに改修されています。

廃止されたNO2ループ
現在はスィッチバックになっています
こちらからお借りしました

バタシアループの全景
テーマパークと言われても違和感ありません
ダージリンヒマラヤ鉄道のループ線は最初4カ所で開業し、5ヶ所に増えて、4カ所、3か所と減るという変遷をたどったことになります。

バタシアループ周辺は大きな公園(グルカ族の戦没者記念公園だそうです)になっており、ヒマラヤを望む絶景が見られますが、いかんせん雨の多い地域ですので、晴れた光景を見るには超絶的な強運が必要です。最小曲線半径は13mで、テーマパークのアトラクションに近い雰囲気です。

道路脇を走る
こちらからお借りしました
実はこのダージリンヒマラヤ鉄道、路線のほとんどが並走するヒルカートロードという道路脇に作られており、路面電車に限りなく近いものです(もちろん非電化ですので電車ではありません)。

ダージリンヒマラヤ鉄道の開通時はイギリスは先に書いた通りすでにインドでの覇権を固めており、ここにあまり多大な投資をする気がなかった節が見られます。

同時期にアフリカ大陸、オーストラリア、カナダなどで大規模な鉄道建設を行っていることから、技術的に重軌道の鉄道が作れなかったわけではありません。初めからダージリンの鉄道はこの程度のものと割り切って作られたように見受けられます。


  • 世界遺産効果は侮れない

ダージリンヒマラヤ鉄道は開通当時から全線80㎞を7時間かけて走る超鈍足の鉄道でしたが、それはディーゼル機関車の牽引になった現在でもそれほど変わっていません。

現在では全線を運転するディーゼル機関車牽引の列車が1日1往復、山頂部分のクセオン~ダージリン間の区間列車が1日1往復で、全線の運賃は1285ルピー≒2200円です。これは普通のパッセンジャートレインに分類できるでしょう。

アゴニ―ポイント全景
こちらからお借りしました
その他に、山頂部分のダージリン~グームの一駅間だけを2時間ほどで往復する観光列車がSLとディーゼル合わせて1日4往復~5往復あり、観光客向けはこちらの観光列車がメインとなっています。

さらにコアな鉄道体験をしたい人向けにダージリンから山の中腹のクセオンまでを8時間かけて往復するレッドパンダ号が1往復、山の麓のシリグリ~ラントン間を4時間で往復するジャングルサファリ号が1往復それぞれ設定されています。

なお、SL列車はかなりの確率で途中で故障するらしく、動かなくなった場合はバスで代行輸送するとのことです。また、水害に非常に弱く、日本の台風にあたるサイクロン通過後は必ずといっていいほど土砂崩れで運休になってしまいます。昨年も水害による運休が続いていて、2017年の1月に運行が再開されたばかりだそうです。

正直ダージリンヒマラヤ鉄道は世界遺産にならなければバス輸送に置き換わっていても不思議はないものでした。世界遺産様様といったところです。



有名ではありますが、ループ線マニアとして見る場合は、少し物足らないのがダージリンヒマラヤ鉄道のループ線だと思います。特に衛星写真に線路敷が全然映らないのが致命的です。

ここは有名な観光地ですのでいろいろな方が現地を訪れていらっしゃいます。特にマニア的におすすめの旅行記を一つご紹介しておきます。→こちら


半年にわたった連続ループ線シリーズは今回で終了です。

次回からは完成したのに列車が走らなかった、あるいはすぐ廃止になってしまったというような未成・短命ループ線をご紹介していきたいと思います。テーマの性質上、ドマイナーなループ線が続く超ディープなマニアの世界になります。しばらくの間お付き合いいただければと思います。



まず次回はイタリアの未成ループ線をご紹介します。

2017/03/19

アジア⑧韓国中央線 雉岳ループ&竹嶺ループ 今のうちに連続通過しておこう 


  • 近代化されていない路線もまたよし

連続ループ線シリーズ、今回は身近なところで韓国中央線の連続ループ線をご紹介します。

韓国のKorail中央線はソウルと慶州を結ぶ京釜線のバイパス路線として日本統治時代の1941年から1942年にかけて建設されました。

中央線は太平洋戦争中の空爆を避けるためにわざと山の中を通るルートを選んで建設したため、ソウルを出るとすぐに東へ向かい山岳地帯を縫うようにして朝鮮半島南部を目指しています。ここも軍事色の強い路線だったようです。

雉岳ループの交差部
こちらからお借りしました
朝鮮戦争後は山間部からの石炭輸送に活躍するようになり、1980年代になると栄州(ヨンジュ)以北の北半分が電化されました。一方栄州より南は京釜線経由がメインとなったため、現在に至るまで非電化です。

ソウルに近い部分は近年近郊路線としての性格が強まっていて、ソウルから約60kmの砥平(チピョン)までは大規模に線路が付け替えられてすっかり都市近郊鉄道に生まれ変わっています。

一方、新しい電車が走る近郊区間を過ぎると、電気機関車がけん引する客車のムグンファ号がのんびり行きかう農村地帯です。


  • 似ているけれど微妙に違う
雉岳ループ周辺
さて、中央線はわざわざ山岳部を選んで敷設されたという経緯もあって、ループ線が2か所作られました。北側はソウルから約120kmの雉岳(チアック)ループ、南側はソウルから約180kmの竹嶺(チュクリョン)ループです。どちらも南に向かって上り坂になります。

朝鮮半島の地図を見ると東海岸沿いに南北に標高1200mの太白山脈が走っています。

竹嶺ループ周辺
 雉岳ループと間違い探しレベルの差しかないですね
その太白山脈の中央部から分岐して南西方向に向かうのが小白山脈です。太白山脈沿いに南下する中央線は、小白山脈を2か所のループ線で越えていることになります。

竹嶺ループのすぐ南にある竹嶺トンネルが分水嶺となっており、北側はソウルを通って北朝鮮側に河口がある漢江流域、南側は釜山に河口のある洛東江の流域です。

雉岳ループと竹嶺ループは両方とも山脈に食い込む狭い谷間の行き止まりにあり、周囲の地形は良く似ていますが、雉岳ループはシンプルな形状なのに対して、竹嶺ループは少し回りこんで回転しています。

竹嶺ループの方が少し輪を大きく取って高低差を稼いでいるという違いがあります。谷間の農村風景はどことなく日本の風景と通じるところがあります。

雉岳ループの方が撮影には適しているようです
こちらからお借りしました
現地ではトンネルの名称で金台第2トンネルループ(금대2터널)、大江トンネルループ(대강터널)と言っているようです。

曲線半径と勾配はどちらも350m20‰で、高低差は雉岳ループは約20m、竹嶺ループは約30mです。

雉岳ループの方は世界有数の真円に近いループ線ですね。ここまで真円に近いループ線はほかにはタンド線のサンダルマループぐらいしか思い当りません。


  • まな板の鯉状態

ここは韓国の東西南北を結ぶ重要なルートになっており、現在でも客貨ともに多数の列車が行きかっています。

雉岳ループを通らない新線が建設中
雉岳ループを通る旅客列車は16往復32本、竹嶺ループを通る旅客列車は12往復24本です。

両方のループ線を連続通過するムグンファ号が9往復あります。ソウルの清涼里駅から2時間30分ほどですので、日帰りも十分可能です。気合を入れれば博多~ソウル~中央線~釜山~博多の日帰りも可能かもしれません。

竹嶺ループの写真は少ないです
こちらからお借りしました
ところが、中央線の原州ー堤川間では現在複線化工事中なのですが、この雉岳ループ周辺は別ルートの新線を建設する予定になっています。これが完成すると雉岳ループは列車が通らなくなるため、おそらく廃止されることになるでしょう。記事によると2018年完成目標となっています。

韓国の新線建設は数年単位で遅れることが多いので目標どおり完成するかどうか微妙ですが、いずれ廃止の運命は避けられそうにありません。早目に乗っておくのが良さそうです。

なお、南の竹嶺ループの方は当面は安泰のようです。





さて、次回で連続ループ線シリーズは終了です。

連続ループ線シリーズの最終回はダージリンヒマラヤ鉄道をご紹介したいと思います。

2017/02/24

欧州㉒レーティッシュ鉄道アルブラ線ベルギュンループ線群 4連ループの知名度は世界的

  • マニアでなくても知っている
今回は世界的に超有名なレーティッシュ鉄道のループ線群をご紹介します。

レーティッシュ鉄道と言えばベルニナ線のブルージオがオニの知名度を誇っていますが、今回のアルブラ線も負けていません。むしろ観光ルートの関係でブルージオには行けなかったけど、こちらは行ったことがあるという方も多いのではないでしょうか。ブルージオはアルブラ線から少し離れていますので、別の機会にご紹介します。

レーティッシュ鉄道はスイス南東部、地図の右下にあたるイタリアとの境の部分に400㎞の路線網を持つメーターゲージの私鉄です。

私鉄とは言ってもスイス連邦が43%、地方自治体が51%出資している日本でいうところの第3セクター路線で、実体はほとんど公営鉄道です。

アルブラ線はレーティッシュ鉄道の本線格の路線で、標準軌のスイス国鉄が乗り入れるクールからサンモリッツまでの約100㎞を結んでいます。急峻な地形をラック式ではなく通常の粘着式で建設し、難工事の末1903年に開通しました。意外と古い歴史があります。ベルニナ線とともに世界遺産に指定されている超有名な観光路線ですが、実はどちらもローカル列車が頻発しており、地域交通の中でも重要な役割を担っています。

戦後何度か旅客減で経営危機に陥いってますが、有名な氷河特急Gracier Expressの設定による観光需要の取り込みで盛り返しに成功しています。私見になりますが、粘着式だからこそ存続できたという側面があったと思います。

  • バラエティ豊かな4連ループ
アルブラ線のフィリスールとサンモリッツの間にあるアルブラ峠は、20㎞で700mの標高差を上下する難所でした。峠の北側のフィリスール方向はベルギーのロッテルダムが河口のライン川流域、峠の南側のサンモリッツ方向はルーマニアに河口のあるドナウ川流域です。アルブラ峠はこの2大河川の分水嶺となっています。

このうちフィリスール・プレダ間は、ループ線が4つ連続するループ線マニアにとってもハイライト区間です。ここではループ線はトンネルの名前で呼ばれており、下のフィリスール駅側から順にグライフェンシュタイン、ゴット、ルークヌックス、トウア・ツォンドラとなっています。

ルークヌクスループトンネル。こちらからお借りしました。
フィリスール駅を出てすぐのグライフェンシュタイン・ループトンネルは普通のループトンネルで、ベルギュン駅の先にあるゴット・ループトンネルはダブルヘアピンの一部が重なっている形状のループ線です。

ムオト信号場の先にあるルークヌックス・ループトンネルもマニア的にはそれほど変わったところのないループトンネルです。

最上部にあるトウアトンネルとツォンドラトンネルからなる8の字ループがやはりここの見どころでしょう。

なんとかして高低差を克服しようとした苦心の跡を見ることができます。世界のループ線の線形の中でも傑作の部類に入ると思います。二つのループ線をヘアピンカーブで結んでいる相当珍しい形の二重ループです。ここだけで標高差120mを稼いでいます。

トウアトンネルから見た風景です。超有名なアングルですね。

フィリスール駅から4つのループ線を越えてプレダ駅までずっと35‰勾配が続き、最小曲線半径は100mとハードな山岳路線で、この二駅間の片道30分間で4カ所のループ線を通ります。ゴッタルドバーンに並ぶ世界一のループ線密集度です。

普通のループ線、ダブルヘアピン、8の字二重ループと形状のバラエティに富み、さながらループ線の見本市の様を呈しています。3種類の形状のループ線を連続一乗車で体験できるのはこことゴッダルドバーンだけです(中国の成昆線でも一昼夜かかりますが、一応一乗車で体験することができます)。

  • 楽しみ方いろいろ、観光特急だけじゃない

アルブラ線を通過する旅客列車には、氷河特急、ベルニナ特急Vernina Expressの直通列車、ローカル列車の3種類があります。

氷河特急はサンモリッツからマッターホルンゴッダルド鉄道に乗り入れてツェルマットまで走っており、冬季1日1往復、夏季3往復です。

ランドヴァッサー橋を渡る氷河特急。ランドヴァッサー橋はフィリスールのすぐ先です。
これもめちゃくちゃ有名なアングルです。
ベルニナ特急はイタリアのティラノからベルニナ線~サンモリッツ~アルブラ線~クールまたはダボスというルートで走っています。

ベルニナ特急にはサンモリッツ止まりでアルブラ線に乗り入れない列車もあります。アルブラ線直通のベルニナ特急は夏季のみ1日2往復です。

前述のとおりここではローカル列車も8時台から22時台まで毎時1本ずつ、16往復32本あり、地域ローカル輸送にも鉄道が大活躍しています。


さらに、冬季は沿道をそりで滑り降りてくるアトラクションが毎年開設されており、そのための臨時のシャトル列車がベルギュン~プレダ間で運転されています。

このアトラクションはファミリー向けののんびりしたものかと思いきや、滑ってる人同士がぶつかったりスピードの出しすぎでコースアウトしたりで毎シーズンけが人の出るかなりスパルタンなものらしいです。ループ線とは直接関係ありませんが、これは楽しそうです。

このシャトル列車は1日最大13本(時期と曜日によって変動あり)、フル運転する日はほぼ終日30分間隔の運転になります。日没後もナイタースキーの要領で滑ることができるそうです。昼間は混雑で思うように滑れない場合もあるけど夜は空いていておススメ、そのかわりコースアウトすると最悪凍死する危険性もある、とか怖いことが書いてあります。

なお、このシャトル列車は上り方向のプレダ行きのみ営業運転で、下り方向のベルギュン行きは回送列車になります。下りはそりで滑ってこいということですね。スキー場のリフトがわりに電車を使うというなんとも大胆な取り組みです。レーティッシュ鉄道のHPは→こちら

観光用の展望特急で優雅に行くか、ローカル列車でじっくり行くか、シャトル列車&そりでアクティブに行くか。

知名度抜群のアルブラ線ループ線群は多様な楽しみ方ができます。



次回は韓国の連続ループをご紹介します。