公開済みループ線のまとめ

2016/10/31

中国⑧南疆線 天山山脈ループ線群 シルクロードをたどる4連ループ線 

  • 遥かなる古代シルクロード

今回から「連続するループ線」をテーマにご紹介していきます。

以前ご紹介した大規模ループ線シリーズとテーマ的にかぶる部分がありますが、「小さいループ線が連続するところ」という感じの路線を集めて行きたいと思います。これまで紹介した中ではタンド線ループ線群やアルゼンチンの雲への列車などはこのカテゴリに入るものですね。日本の上越線もこれになりそうです。ここしばらくマイナーなループ線が続いていましたが、メジャーどころが続々登場しますので乞うご期待。

さて連続ループ線の初回は、中国の西端部の南疆線天山山脈ループ線群をご紹介します。

シルクロードの町トルファンから砂漠のオアシスの町コルラまでの約300kmの間に4カ所のループ線があります。

そもそもこのトルファンが地形的に不思議な町です。タクラマカン砂漠に大きく窪んだところがあって、海抜は100mしかありません。一番低いところで海抜マイナス200mにもなっており、大昔は大きな湖だったのが干上がったものと言われています。

トルファン駅は市街地の中心から40kmも離れた標高600mの高台にあります。駅から市街地までは一直線の下り坂です。

トルファンから2つ目のループ線の先にある徳文託蓋の大カーブだと思います
 著名な鉄道写真家siyang xueさんのサイトからお借りしました →こちら
古代シルクロードの一つ天山南路は、平坦な砂漠をあえて避けて、標高3400mの峠越えをしていました。川沿いを通るので水に困らないのが何よりの利点でした。

南側の砂漠を通れば峠を登らなくてもいいかわりに、飲料水が全く手に入りません。水が手に入らないのは行商には致命的で、距離は短くても砂漠経由は通商路としてはまったく使えませんでした。

南疆線は忠実に古代シルクロードに沿って建設されましたが、標高差2500mの峠越えは鉄道には難題でした。

南疆線はこの区間をダブルヘアピン4カ所とループ線4カ所、それに加えて標高3000m全長6.1kmの奎先(クイシェン)トンネルが作られています。トルファン側から見て登りに2つ、下りに2つの二重双子ループになっています。


線内最高所の烏斯特駅
この区間の開通は1978年~79年で、当時は鉄道トンネルとして最高所で最長と中国語の文献にはありましたが、これはおそらく調査不足でしょう。南米のアンデス山脈には全長はともかくもっと標高の高いところにすでに鉄道トンネルがあったものと思います。

曲線半径は最小800mとさすがの幹線級ですが、中国の鉄道にしては珍しく22‰勾配まで許容しています。

トルファン・コルラ間350kmを通過するのに約9時間かかっていました。この区間にはおよそ10km間隔で37駅ありましたが、居住人口はごくわずかで、ほとんど旅客扱いはありませんでした。


  • 実は一番最近に旅客列車が走らなくなったループ線

さて、もともと南疆線自体、中国の西域開発のために建設されたものですが、2000年から始まった西域大開発政策に伴って、鉄道インフラの強化が加速します。

南疆線については1999年にカシュガルまで全通して一段落していましたが、さらなる輸送力強化としてこの天山山脈越え区間をショートカットする新線を建設することになります。

古代シルクロードが避けた南側の砂漠を21世紀の土木技術で克服しようとする壮大な試みです。

これが第二トルファン・コルラ線(吐庫二線)と呼ばれる全長240kmの160km/h対応電化複線の新線です。

このルートの目玉とも言える最難関が山脈をぶち抜いた全長21kmもある中天山トンネルです。夏は気温40度、冬は零下20度という超過酷な気象条件を克服して2014年に開通、2015年2月より旅客列車は全部新線経由に置き換わりました。

160km対応複線電化新線で吐庫間は劇的に短縮
 この写真は魚児溝駅近くの分岐点です
新華社のサイトからお借りしました
この区間の旧線末期には旅客列車が7往復設定されていました。新線の開通により4時間程度短縮されて、トルファン・コルラ間は現在は約5時間弱になっています。

さらっと書きましたが所要時間が9時間から5時間に半減する大交通革命をもたらしました。距離の短縮、最高速度引き上げ、複線化による待ち合わせ時間短縮の3つが最大限効果を発揮しています。現在、列車本数も18往復に倍増し、最速列車はなんと2時間50分でトルファン・コルラ間を走破するというから驚愕です。

中国の超著名な鉄道写真家王嵬さんの作品からお借りしました。
これも徳文託蓋の大カーブだと思います
その反面、ループ線マニアとしてはループ線を通る旅客列車が全滅してしまっており、残念なことこの上ありません。この区間は高地ステップ地帯と言うものでしょうか、全線にわたって極めて見晴らしの良い区間でした。写真を見ると一面の草原を走っていたようです。

この区間、日本から乗りにいかれた方もかなりいらっしゃったようで、WEB上に南疆線・トルファン・コルラで検索するとたくさん旅行記が出てきます。その中でも旧線区間のことが詳しく出ているサイトを一つご紹介しておきます。→こちら


  • 先のことは分からないがとりあえず存続中  

旅客列車はすでに新線に切り替わっている旧線ループ線群ですが、路線自体は廃止になっておらず2017年現在も引き続き貨物列車が走っているそうです。

将来的に旧線の途中から分岐してイリ(中国名伊寧、ウィグル名グルジャ)からカザフスタンのアルマトィへ乗り入れる国際路線を建設する計画があり、残してあるものと推測されます。単に新線を走れる機関車の増備が追い付いていないだけというコメントも中国語の掲示板で見かけましたが、それもあり得る話です。

計画通り路線が建設されれば再び旅客列車が走ることになりそうですが、政治的に微妙な東トルキスタン地域の中心地であるイリに向けて、ウィグル族の利便性が向上するような列車を中国政府が走らせる気があるのか多少疑問が残ります。この地区では急激な開発に伴って漢民族が大量移住して土着のウィグル族とせめぎ合いを起こしており、たまに大規模な暴動が発生したりしています。

雄大な景色の4連ループを持つ南疆線ですが、その存廃は微妙な国際政治のバランス次第ということになりそうです。



次回は中国からもう1ヵ所ドマイナーな連続ループをご紹介します。

2016/10/23

欧州⑱ブルガリア国鉄南バルカン線 クリスラループ 英雄の眠る町はずれのループ線


  • 戦後生まれの末っ子幹線

まちなかループ線の最終回はブルガリアの南バルカン線にあるクリスラループをご紹介します。

ブルガリアではナローゲージのアヴラモーヴォループをご紹介しましたが、今回ご紹介する南バルカン線はブルガリアの国土を東西に結ぶ3本ある幹線鉄道の真ん中を通る標準軌路線です。

ブルガリア国鉄路線図
開通年度が入っていますがなぜかドイツ語です
一番南の1号線はセルビアからトルコまで繋がっている国際路線で、オリエント急行も走っていました。1888年までに全通している古い路線です。

バルカン山脈の北を通って黒海に面した港町ヴァルナを目指す2号線も1899年に開通しています。1号線と2号線を補完するために作られたのが3号線で、バルカン山脈の南側を通っているので南バルカン線と呼ばれています。南バルカン線の開通で2号線経由よりも30㎞ほどヴァルナまでの距離が短縮されました。

南バルカン線は東西両方向から工事が進められましたが、ソフィアから130kmほど東にあるコズニッツア峠越え区間の工事が難しく、全通したのは第二次大戦後の1952年と比較的最近の話です。この峠区間にブルガリア最長のコズニッツアトンネルとクリスラ・ループが作られました。この区間が南バルカン線の最後の開通区間です。


  • ブルガリア人にとって無視できない小村

クリスラ・ループには二つ特徴があります。

一つは勾配15‰、曲線半径500mと非常に高規格で作らている点。第3の東西幹線を作るというブルガリア国鉄の意気込みが感じられます。

もう一つは、村落をきれいに避けて線路が引かれている点です。コズニッツア峠のトンネルを抜けてストリャーマ駅から13‰勾配で坂を下ってきた線路は、クリスラの町はずれの丘を村落とは反対の方向に輪を描く形でループし、村落の下をトンネルで抜けて川沿いに出ています。

クリスラの町を包むように線路が引かれています

地形図を見ると、クリスラの村落をまったく無視して別の場所に線路を通すか、あるいは村落を分断する形で中央に線路を貫通させれば、ループ線にする必要なかったのではと思えます。しかしあえて村落の近くに線路を通し、なおかつ村落自体に影響を与えないようにルートを選定した形跡がうかがえます。

1950年代はブルガリアはスターリン主義が幅を利かせていた時代です。民衆の意見など聞かぬ媚びぬ省みぬのバリバリの全体主義共産国家でした。

ところがクリスラは1878年に起こったブルガリア人のオスマントルコに対する反乱の中心となった町の一つでもあり、たかだか人口1500人の小村であっても素通りする訳にはいかなかったのではないかと思われます。クリスラにはこの反乱を記念した歴史博物館があり、反乱のリーダーの像が飾られているそうです。

ループ線が村落を避けて通っているため、クリスラの町から線路が見えるところはあまりありませんが、川をまたぐ石積みのクリスラ大橋は鉄道名所となっています。ループ線の高低差は100mです。


  • 減便中につきご注意を

2016年10月現在、南バルカン線にはブルガスまで直通する特急1往復、快速列車と普通列車が2往復ずつ、区間運転の普通列車1往復の計6往復がループ線区間を通過して行きます。いずれも朝と夕方以降の発着で昼間の列車はありません。

本来はもう少し列車があるようですが、現在は線路改良工事で一時的に列車が減らされているようです。昨年段階では特急4往復、快速と普通が7往復の計11往復あったそうです。

首都ソフィアから2時間ほどですので、ブルガリア観光ついでにソフィアから日帰りで見に行くこともできますが、列車の時間はよく調べて行かないとハマります。

You Tubeに前面展望ビデオがありました。最初の10分間はコズニッツアトンネルの中で、10分27秒にストリャーマ駅、12分40秒ぐらいからループ線を通過します。16分40秒に通過するのがクリスラ大橋です。





まちなかループ線シリーズは今回で終了です。

次回からは連続ループ線シリーズをご紹介していきたいと思います。既にいくつか紹介しているところもありますが、一つの列車が連続してループ線を通るところを紹介していきたいと思います。

まず次回は中国の連続ループ線をご紹介します。






2016/10/16

欧州⑰ドイツ・レンツブルグハイブリッジ 超異色の鉄橋ループ線

  • 船を通すために作った超巨大鉄橋ループ線
まちなかループ線シリーズもラストスパートに入りました。今回はドイツのまちなかループ線を二つご紹介します。今回も山岳鉄道ではありませんが、強烈な存在感を放つ世界でも異色のループ線です。

レンツブルグはシュレスヴィッヒ・ホルシュタイン州にある人口3万人の都市です。ここも中世以降ドイツとデンマークとの間で帰属が揺れた地域でもあります。

シュレスヴィッヒ・ホルシュタイン州はもともと神聖ローマ帝国領でしたが、15世紀ごろからしばらくデンマーク王国の領土となっていました。2度のシュレスヴィッヒ・ホルシュタイン戦争の結果、ちょうど日本の明治維新と同じ時期に当時のプロイセン領となっています。

第一次世界大戦後に半島の中央部、北部シュレスヴィッヒと言われている地域はデンマーク領に復帰しましたが、南部は住民投票の結果ドイツに残留しています。

さて、ユトラント半島の付け根にはデンマーク領だった1784年にキールとテンニングを結ぶ自然河川を利用したアイダー運河が建設されていました。レンツブルグはそのころから河川港の町として発展していきます。

鉄道の開通も古く、1845年にはノイミュンスターからレンツブルグまでの間でデンマーク系の鉄道会社によって開通しています。この時はまだ運河を越える橋はスイングブリッジ=旋回橋で、船が通るたびにレールを回転させていました。

ところが、1868年に一帯がプロイセン領になると、飛躍的に運河の重要度が高まります。列車が通る暇がなくなるほど船の通行量が増えました。航行距離の短縮に加えて、自国の内水だけで北海とバルト海を行き来できる点が軍事的に極めて重要でした。そこでドイツ帝国は新しい運河を開削します。これが1895年に開通したキール運河です。スエズ運河、パナマ運河と並んで世界3大運河と呼ばれています。

キール運河開通後もしばらくは旋回橋を使っていましたが、軍艦の往来に備えるため運河を拡張することになり、旋回橋を廃止して高い鉄橋で運河をまたぐことにしました。この時、レンツブルグ駅を移転させずに運河をまたぐだけの高さを稼ぐ方法として考え出されたのが、ループ線を使ったレンツブルグハイブリッジです。

こうして鉄橋部の全長2400m、鉄橋部の勾配6.6‰、取付部勾配12‰、高低差60mの全長5.5kmにもなる特大ループ鉄橋が1912年に完成しました。

文章にすると簡単そうですが、100年以上前の話です。よくこんなもの考えついて実際に作ってしまったものです。当時のドイツは恐ろしいですね。

さすがにこれだけの高さと長さの鉄橋だけあって見晴らし抜群、地上からの見た目のインパクトも強烈です。あまりにも上空から目立つため、第二次世界大戦中は鉄橋を守る専用の守備隊が置かれていたそうです。なお、鉄道橋の下に車と人を運ぶゴンドラが付いていて、渡し船のような使い方をする運搬橋という構造になっているそうです。

  • 圧倒的通行量を誇る
レンツブルク・ハイブリッジは現在でも旅客列車がものすごい頻度で走っており、ドイツからデンマークへ向かう重要な大幹線です。

キール・フースム線が日中30分ヘッドで1日41往復、ノイミュンスター・フレンスブルグ線が日中1時間ヘッドで1日21往復あります。

それに加えてハンブルグからノイミュンスター・フレンスブルグ経由でデンマークへ向かう国際特急が1日4往復(うち1往復は夜行のコペンハーゲン直行便)あり、合計で1日66往復132本の列車が行きかいます。 これ以外に貨物列車もあるので、かなりのへヴィートラフィックです。実際に乗車された方のページは→こちら


その他、週末にはミュンヘンまでドイツの南北を縦貫する特急や西部ケルンへの直行特急も運転されています。ハンブルグからレンツブルグまでは約1時間20分です。

旅客列車の運行本数では間違いなく世界一のループ線なのですが、山岳鉄道ではないのでナポリ地下鉄同様参考記録ですね。

列車ダイヤがらみで注目なのはキール~レンツブルグ間のローカル列車です。ローカル便にもかかわらず、始発がレンツブルグ発午前4時29分、金曜日の終電はなんと午前1時53分です。

平日でも午前0時31分まで運転されており、山手線も驚く脅威の運転時間。毎週末が大みそか状態のほとんど終夜運転のノリです。ちなみにキール発レンツブルグ行きは始発が午前3時48分!、金曜日の終電が午前1時08分ともっとすごいことになっています。

運転時間が長い割には朝夕のラッシュ時にも毎時2本ずつしかないのが不思議です。一体この区間の輸送需要はどうなっているんでしょうか。キールもレンツブルグも港町なので深夜にも移動需要があるのでしょうか。ちょっと現地を見てみたくなりますね。キールからレンツブルグまでは約40分です。

You Tubeに前面展望の動画がありました。想像以上の迫力ですが、橋の中央付近ではなぜか徐行していますね。



  • ドイツらしいと言えばドイツらしい連絡線ループ
さてドイツのまちなかループ線、もう一カ所は先ほどからちょろちょろ名前の出ているフレンスブルグにある連絡線です。ここも残念ながら山岳鉄道とは言い難いものですが、間違いなくループ線です。


フレンスブルグはどちらかというと商業港で、第一次大戦以降はドイツ最北端のデンマークとの国境の町となっています。

デンマーク領時代の1854年に作られたフレンスブルグ中央駅は、港のそばに作られた手狭なものでした。開通時はノイミュンスターからの路線だけでしたが、1864年にはデンマーク方面に線路が延長されています。この時に手狭なフレンスブルグ中央駅を避け、南側にフレンスブルグ・ヴァイヒェ駅を作ってそこから分岐する形態としました。

その後、ドイツ領になって続々と路線が増えていきます。1881年にはキールへ向かう路線が、1889年には北海側のリントホルムへ向かう線が開通します。ジェノヴァ港近辺と似たようなごちゃごちゃ状態になっていたのですが、ドイツ人はそういうのが許せなかったのでしょう。第一次世界大戦後の1927年にフレンスブルグ中央駅を移転させて、操車場機能はフレンスブルグ・ヴァイヒェ駅に集約しました。この時にできたのがフレンスブルグ連絡線のループ線です。

フレンスブルグ・フリーデンスヴェーク信号場
左の単線が中央駅からくるループ線
右の複線がヴァイヒェ駅に繋がっています
イタリア人とドイツ人の気質の違いが見えるようで面白いのですが、第一次世界大戦のドイツ敗戦後に作られた点も興味深いです。この時代、ドイツは戦後処理が一段落してハイパーインフレも収まり、相対的安定期と言われる束の間の好況期でした。ちなみにこの時日本では大戦中の好景気の反動と関東大震災による戦後不況の真っただ中でした。

フレンスブルグ連絡線には現在デンマーク方面への特急が1日10往復乗り入れています。このうち6往復はフレンスブルグ中央駅の始発・終着ですので、ループ線全体を通過するためにはハンブルグからのデンマーク直通国際特急4往復(うち1往復は夜行便)に乗らないといけません。

2016年現在、フレンスブルグ市では、デンマーク領内の鉄道路線高速化に合わせてヴァイヒェ駅を改築し、長距離列車は中央駅を通らずにデンマーク方面へ直行させる計画があるそうです。現在の中央駅は近郊列車専用にするようです。確かにそれだけでデンマーク方面へは15分ほど短縮できるので合理的ではあります。今のところ議論の段階ですが、この連絡線ループは将来安泰という訳ではなさそうです。





次回はまちなかループ最終回、ブルガリアのループ線をご紹介します。久しぶりに山岳ループ線です。